孔若思
- 孔若思は越州山陰の人、陳の吏部尚書孔奐の四世孫。祖父の孔紹安は兄の孔紹新と共に早くから名を知られた。陳滅亡後、鄠に寓居し学問に励んだ。外従兄の虞世南は「本朝が滅んでも、こうした弟がいるなら我らの血筋は絶えまい」と語った。孔紹安は孫万寿と共に文辞で称され「孫孔」と並び称された。隋大業末、監察御史となる。高祖が河東で討賊した際、孔紹安は夏侯端と共に監軍を務め手厚く遇された。夏侯端が先に帰順し秘書監を拝命した後、孔紹安も間道を経て長安に至り、帝は喜んで内史舎人に抜擢し邸宅一区・良馬二匹を賜った。
- 孔若思は早くに父を失い母の訓育で育ち博学で知られた。褚遂良の書を贈られた際、その一巻の価値が千金と聞くと半分を返し「本当にそれほどの価値なら受け取りすぎだ」と言った。明経に及第し庫部郎中を歴任、「仕官は郎中で十分」と語り座右に止水を湛えた盤を置いて満足を戒めとした。
- 中宗初、敬暉・桓彦範が執政の際、孔若思の博識を頼りに大政を諮った。礼部侍郎に累進し衛州刺史に出た。旧慣で宗室が別駕として刺史に会う際は横柄で敬意を示さなかったが、孔若思は別駕李道欽を弾劾し取り調べを求めた。以後、別駕が刺史に敬意を払う制度は孔若思から始まった。清廉さで銀青光禄大夫に抜擢され絹百匹を賜り梁郡公に累封された。開元七(719)年に没し謚を恵とした。
若思從父 禎
- 従父の孔禎は進士に及第し監察御史に累進、清廉で賓客の訪問もなく、それゆえかえって時に硬直と非難された。高宗の代、絳州刺史に累進し武昌県子に封じられ謚を温とした。
禎子 季詡
- 子の孔季詡は字を季和といい、永昌初、制科に挙げられ秘書郎を授かった。陳子昂は常にその清らかさと衛玠に比する風格を称えた。左補闕で終えた。
若思子 至
- 孔若思の子孔至は字を惟微といい、著作郎を歴任し氏族学に明るく韋述・蕭穎士・柳沖と並び称された。《百家類例》を撰し、張説らを新興の族として除いたところ、張説の子張垍が「天下の氏族がお前に何の関わりがあってそんなに騒ぐのか」と怒った。垍の弟は孔至と親しく事情を伝えたところ、当初、書の完成時にこれを見た韋述は「伝えるに値する」と評していたが、垍の言葉を聞いた孔至が恐れて改訂しようとすると、韋述は「やめよ!大丈夫が筆を振るって一家の書を成した以上、人の言動で揺らいではならぬ、死んでも改めるな」と諭し、孔至は改訂をやめた。当時、韋述・蕭穎士・柳沖もそれぞれ《類例》を撰していたが、孔至の書が最も精巧と評された。