韋景駿
- 韋景駿は司農少卿韋弘機の孫、明経に及第。神龍中、肥郷令として、漳水の氾濫が続き堤防が漕渠に近すぎて度々決壊する問題を、地形を測って南に千歩移し高地に堤を築くことで解決、堤の北は乾いた肥沃な農地に変わった。橋を建てて渡し舟を廃するなど費用対効果の高い改良を施し、後の模範となった。河北の飢饉に際し自ら村里を巡り物資融通を勧めたため肥郷だけは流民が出なかった。貴郷令に転じた際は母子の訴訟に「令自身も親を早くに失って常に痛みを感じている、お前は親がいながらそれを忘れるのか」と涙して《孝経》を授け、母子は感悟し孝子となった。当時、清漳令馮元淑・臨洺令楊茂謙とともに治績で名高かった。
- 数年後、趙州長史となり肥郷を通った際、民が争って酒食を持ち出迎えた。ある子供に「お前が生まれる前にわたしはこの邑を去った、旧恩もないのになぜ来たのか」と問うと「学校・館舎・橋堤はみなあなたの治めた業と長老に聞き、古人のように思っていたのが今日会えて嬉しいのです」と答えた。房州刺史に転じ、僻遠で蛮夷の風俗が残り学校もなく淫祀を好む地に、貢挙の道を開き隘道を通じ伝舎を作り、無名の祠を廃した。奉天令に転じるが赴任前に没した。
- 楊茂謙は制挙に及第し左拾遺内供奉、大理正・左台御史中丞を歴任、開元初、魏州刺史・河北道按察使として出た。友人の司馬張懐玉と晩年に不和になり互いを非難し合い桂州都督に左遷、広州に転じ没した。
- 韋景駿の子韋述には別伝がある。