武攸緒
- 武攸緒は則天武后の兄武惟良の子。恬淡寡欲で《易》と荘子の書を好んだ。若くして姓名を変え長安の市で占いを売り、得た銭は惜しみなく手放した。のち太子通事舎人から揚州大都督府長史・鴻臚少卿に累進。武后の革命後、安平郡王に封じられ中嶽に従駕したが官を固辞し隠居を願った。武后は偽りを疑いあえて許して様子を見た。武攸緒は本物の隠者のように巌下に廬し、兄の武攸宜が説得しても応じず武后も感嘆した。龍門・少室の間を巡り歩き、冬は茅椒に身を隠し夏は石室に住み、賜り物の金銀の器や貴人の贈った鹿裘・素障・癭杯には塵が積もり使わなかった。潁陽に田を買い家奴に耕作させ自らも民に交じった。晩年は痩せ衰え瞳に紫の光を宿し昼でも星を見ることができたという。
- 中宗初、巣国公に降封され、国子司業杜慎盈を安車で送り太子賓客を授かったが、山への帰還を切に願い許された。安楽公主の降嫁に際し通事舎人李邈が璽書で再び迎えたとき、帝は両儀殿に問道の礼を設け、日常の山帔葛巾のまま名乗らず拝せぬことを許した。武攸緒が到着すると冠帯を改め、通事舎人が就位を促すと常班に就いて再拝し、帝は驚いて礼を行えなかったという。賜り物はすべて受けず、親貴の訪問にも寒暖の挨拶のみで多くを語らなかった。帰山の際は中書・門下・学士・五品以上の朝官が城東で見送った。
- 韋氏一族の誅殺と武氏への連座禍から武攸緒だけは免れた。睿宗は不安を慰める詔を下し太子賓客に再び任じたが就かなかった。譙王李重福の乱に誣告で連座した際、張説が廬山への隠棲を上奏、中書令姚元崇は「武后の時代でさえ外出しなかった人を州県が急かすのは士人を驚かせる」と嵩山の旧居を賜るよう求め、許された。開元十一(723)年に没した。