新唐書卷一百九十四 卓行 元徳秀・権皋・甄済・陽城・司空図
元徳秀
- 元徳秀は字を紫芝といい、河南河南の人。質朴で飾らず、幼くして父を亡くし母に孝を尽くし、進士に及第しても母のそばを離れず自ら背負って上京した。母の死後は墓の傍らに廬し、塩気を絶った食事で喪に服した。貧しさから南和尉に任じられ、恵政を敷いたことで黜陟使に評価され龍武軍録事参軍に抜擢された。
- 親のある間に娶らなかった元徳秀は、絶嗣を心配する声に「兄の子がいれば祖先の祀りは続く、わたしが娶る必要はない」と答えた。兄の子が乳児のとき乳母を得られず自ら乳を出して育てたという逸話もある。魯山令の際、車から落ちて足を傷めても客礼で扱われ、虎害を格闘で贖うと約束した囚人が実際に虎を退治して帰った話は県中を驚嘆させた。
- 玄宗が東都で五鳳楼下に酺宴を催した際、諸州の刺史が贅を尽くした楽団を集める中、元徳秀は数十人の楽工だけで自作の歌《於蒍於》を歌わせ、玄宗はこれに感じ入り「賢人の言葉だ」と称え、贅を尽くした河内太守を罷免した。以後、俸給はすべて孤児の養育に費やし、任期終えるときは絹一匹だけを残して柴車で去った。
- 陸渾の山水を愛して定住し、垣も鍵も設けず使用人も置かなかった。飢饉の年は炊事もできぬほど貧しかったが酒を嗜み琴を弾いて楽しんだ。程休・邢宇・邢宙・張茂之・李某・族子丹叔・惟嶽・喬潭・楊拯・房垂・柳識ら多くの門弟を持ち、《蹇士賦》を著して自らの生き方を表した。房琯は「紫芝の眉宇を見ると名利の心が消える」と嘆息し、蘇源明も「乱世に生まれた不幸の中で、元紫芝を知ったことだけは恥じない」と語った。
- 天宝十三(754)年に没し、家には枕・履・簞・瓢しか残らなかった。李華は兄事し「文行先生」と諡し、その死を悼んで《三賢論》を著し、元徳秀・劉迅・蕭穎士の三者の徳をそれぞれ評した。李華曰く、元徳秀は道をもって天下を統べる志、劉迅は《六経》で人心を調える志、蕭穎士は中古の道で今世を正す志を持ち、皆孔門に達する者だと評した。
元徳秀の門人たち
- 程休(字士美、広平の人)、邢宇(字紹宗)と邢宙(字次宗、河間の人)、張茂之(字季豊、南陽の人)、李某(字伯高)、丹叔(字南誠)、惟嶽(字謨道、趙の人)、喬潭(字源、梁の人)、房垂(字翼明、清河の人)、楊拯(字斉物、隋の観王楊雄の後裔で進士に及第し右驍衛騎曹参軍を経て制科に挙げられ南華令となった。水害の際に粥を施し、安禄山の乱では顔真卿に援軍を乞い一郡を救った。廬州刺史を歴任)。楊拯と元徳秀は最も名高く、喬潭・柳識は文をもって後世に伝わった。
権皋
- 権皋は字を士繇といい、秦州略陽の人、潤州丹徒に移り晋の安丘公権翼の十二世孫。父の権倕は席豫・蘇源明と文で交わり、羽林軍参軍で終えた。
- 権皋は進士に及第し臨清尉となったが、安禄山にその名を知られ薊尉として幕府に招かれた。安禄山の謀反を予見し、諫められぬと悟って逃走を図った。天宝十四(755)年、俘虜を献ずる使者として京師へ向かった帰り、妹の夫福昌尉仲謨を病と偽って呼び寄せ、目の前で仮死状態を装って弔わせ、その隙に逃走した。詔書で母に「死亡」と伝えられ、母が慟哭したことで安禄山も疑わず母を帰した。権皋は淇門で母を待ち構え南へ奔り、臨淮で駅亭の見張り役となって北方の情報を探った。江を渡った直後に安禄山が反乱を起こし、天下は権皋の名を知って争って招こうとし、高適が推薦して大理評事・淮南采訪判官の試官を得た。
- 永王李璘の挙兵に際しては偽名で難を逃れ、玄宗は蜀でこれを聞いて監察御史を授けたが、母の喪と風痺の病で洪州に留まっていた。宦官の横暴を諫めようとする南昌令王遘に協力を控えるよう促す逸話や、浙西節度使顔真卿の推薦で行軍司馬となるも「乱世に身を清く保つため名声を求めない」と辞退した逸話が伝わる。享年四十六で没し、韓洄らが喪に服し秘書少監を追贈された。元和年間、謚を貞孝とされた。子の権徳輿は宰相に至り別伝がある。
甄済
- 甄済は字を孟成といい、定州無極の人。叔父は幽・涼二州都督を務めた家柄で、幼くして孤児となったが独学を好み文雅で称された。青巌山に十余年隠棲し、その徳を慕って周辺では狩猟や漁を控える者すらいた。何度も招聘されたが応じなかった。
- 天宝十年、左拾遺として召されようとしたところ安禄山が甄済を求め、范陽掌書記に任じられた。安禄山の謀反の兆しを察知し、諫められぬと悟って羊の血を用いて吐血を装い病臥した。安禄山が反乱を起こすと蔡希德を送り「起きねば首を斬る」と脅したが、甄済は動じず首を差し出そうとしたため蔡希德も感嘆して実際の病と信じた。のち安慶緒に強制連行されたが、廣平王が洛陽を平定した際に軍門で拝謁して感動させ、粛宗は不本意な形で賊官を演じさせて心の潔白を示させたのち秘書郎、のち太子舎人に任じた。
- 来瑱の下で参謀を務め、瑱の死後は七年隠棲した。大暦初、江西節度使魏少遊の推薦で著作郎兼侍御史となり没した。
- 甄済の子は父の官職名にちなみ礼闈・憲台と名付けられたが、礼闈は早世し、憲台は名を逢と改め幼くして孤児となった。宜城の田を耕して独学し、飢饉の年には親族を助け豊作の年には貧者に施した。元和年間、袁滋は「甄済の節行は権皋と同格であり国史に載せるべき」と上奏し、詔で甄済に秘書少監が追贈された。逢と親しかった元稹は史館修撰韓愈に書を送り、甄済の忠を国史に記すよう求め、韓愈もこれに応え父子の名を世に広めた。
陽城
- 陽城は字を亢宗といい、定州北平の人、陜州夏県に移った代々の官族。貧しく書を買えず集賢院の吏となり院の書を密かに読んで六年で通暁した。進士に及第すると中条山に隠棲し、弟の陽階・陽域と衣を共有するほど貧しく暮らした。年を重ねても娶らず「孤独に育った兄弟の絆が薄れるのを恐れる」と弟に語り、弟も義としてともに独身を貫いた。
- 陽城は謙虚で長幼を分け隔てなく遇し、遠近から学びに来る者が絶えず、里の争い事は官に訴えず陽城に裁定を求めるほどだった。米を酒に換えて酔い潰れた奴を叱らず、飢饉の折には楡の皮で粥を作りながら講論を続けたという逸話が伝わる。他人からの縑の贈与を固辞したが、里人鄭俶が親の葬儀費用に困っていると知ると迷わず与え、恩返しを申し出た鄭俶に学問を教え、鄭俶が挫折して自死すると深く悔い喪に服した。
- 陜虢観察使李泌の推薦を受けたが出仕を固辞し、のち宰相となった李泌が徳宗に上奏したことで右諫議大夫に任じられ、褐衣のまま参内し帝に緋衣を賜って引見された。
- 諫官として就任当初は言を発せず、韓愈が《争臣論》で批判したほどだったが、裴延齢が陸贄・張滂・李充らを誣告して逐った際、陽城は「天子に無実の大臣を殺させてはならない」と拾遺王仲舒とともに延英閣で極論し、帝の怒りを買いながらも順宗(当時皇太子)の取りなしで免れた。「延齢が宰相になれば白麻の詔を破り廷で哭す」と公言し、結局裴延齢の宰相就任は阻まれた。この一件で国子司業に左遷され、学生に孝を説き不孝の者を罷免するなど厳格な教育を敷いた。
- 罪人薛約を匿った罪で道州刺史に左遷される際、太学生何蕃ら二百人が留任を請願、柳宗元も蕃らへの書簡で陽城の徳を称えた。道州では民のように治め、俸給を超えた分は官に収め、州特産の侏儒を朝貢する慣習を「州民は皆背が低い、誰を貢げばよいのか」と拒んで廃止させた。前刺史の不正を密告しようとした吏を杖殺し、観察使の督促にも「政治は民を思うことに疲れ、収税は拙く、考課は下下」と自ら記すなど権威に阿らなかった。督促の使者が来ても囚人のように自ら獄に籠るなど抵抗し、最終的に妻子を連れて道中で逃げた。順宗即位後に召還が決まったが既に没していた、享年七十。左散騎常侍を追贈され家に銭二十万を賜った。
何蕃ら
- 何蕃は和州の人、父母への孝行で知られ太学に二十年在籍し死喪した者の葬儀を自ら執り行った。朱泚の乱で学生が加担しようとするのを叱り止め、太学から賊への協力者を出さなかった。李償(魯の人)・李魯卿(進士に及第し名を得た)も陽城との関わりで知られる。
司空図
- 司空図は字を表聖といい、河中虞郷の人。父の司空輿は塩鉄使盧弘正の下で安邑両池榷塩使として法を整備し戸部郎中に累進した。
- 司空図は咸通末に進士に及第、礼部侍郎王凝に特に目をかけられ、王凝が商州に貶されると恩義から従い、後に王凝が宣歙観察使になると幕府に招かれた。殿中侍御史となったが王凝への義理で離れず、光禄寺主簿に左遷された。前宰相盧携と洛陽で交わり、盧携が復権すると礼部員外郎・郎中に任じられた。
- 黄巣が長安を陥落させた際、賊軍に加わっていた奴の段章に投降を勧められたが応じず、間道を経て逃れた。僖宗が鳳翔に移ると知制誥・中書舍人に任じられたが従駕できず、その後も何度か官を辞退し短期間で退いた。昭宗が召しても足の病を理由に固辞、洛陽遷都の際は柳璨の圧力で強要されたが、笏をわざと落として老耄を装い出仕を免れた。
- 中条山の王官谷に隠棲し、亭を建てて唐の文人・節士の図を集め「休休」と名付け、自らを「耐辱居士」と称した。予め自分の棺を用意し、晴れた日には客を招いて墓穴で詩を賦し酒を酌んだという奇行が伝わる。王重栄父子の厚遇にも財を受け取らず、寇盗も王官谷だけは荒らさなかったため士人が避難の地とした。
- 朱全忠が唐を簒奪した後も礼部尚書に招かれたが応じず、哀帝が弑逆されたと聞くと食を絶って死んだ、享年七十二。子がなく甥を嗣とした。
史論
- 史臣は論じて言う。節義は天下の大いなる規範であり、士人はこれに努めねばならない。権皋・甄済が賊に汚されず忠を全うしたことで、乱臣の企ては挫かれた。天下の士人が大義の所在を知ってこそ、傾いた朝廷も支えられる。君子がいなければ国はどうして成り立とうか。元徳秀は徳をもって、陽城は鯁直をもって、司空図は天命を知ることをもって、その志は秋霜のごとく厳しく、まことに丈夫であった。