新唐書卷一百八十九 列傳第一百十四 趙犨

趙犨、陳州宛丘の人。代々忠武軍の牙将を務めた家柄の出。黄巣の乱に際し陳州刺史となり、黄巣・秦宗権の大軍による300日に及ぶ包囲を耐え抜いて陳州を守り抜いた武将。弟の趙昶、子の趙珝とともに三代にわたり忠武軍節度使を継いだ。

年表(5件)

出自と陳州刺史就任

  • 趙犨は陳州宛丘の人で、代々忠武軍の牙将を務めた家柄。犨は幼くして機敏で、子供の遊びでも陣形を組み号令を発する遊びを好み、他の子供たちは従うほかなかった。父の趙叔文は「この子はきっと我が家を大成させる」と語った。成長すると読書を好み剣術を学び弓を能くした。会昌年間(841~846年)、潞州討伐に従軍し天井関を奪取、南蛮征伐にも従い忠武軍で功を重ね大校に昇進した。
  • 黄巢が長安に入ると各地で盗賊が興り、陳州の民は節度府に犨を刺史に推し朝廷に上表して任じられた。着任すると官属を集め「黄巢が長安で滅びなければ必ず東の関を出るはず、陳州はその要衝である」と語り、城壁を築き濠を掘り、倉庫を満たし薪を蓄えて守備を固めた。資産のある者はすべて城内に入れ、甲兵を整え勇士を募り、子弟をすべて兵に組み入れた。黄巣は敗れて果たして東進した。賊将孟楷が1万で項を攻めたが犨がこれを捕らえた。僖宗はその功を賞し検校司空に累進させた。

黄巣・秦宗権との攻防

  • 黄巣は孟楷の死を聞いて怒り、全軍で溵水に布陣し秦宗権と合わせ数十万で5重の長濠を巡らせて百方面から陳州を攻めた。州の人々は大いに恐れたが犨は「士たる者は功名を立てるべきであり、寡兵でも死地に生を求めよ、恐れるだけでは益がない。国のために死ぬのは賊になって生きるより勝る。我が家は陳の禄を食んできた、賊を破って陳を守ると誓う。異議を唱える者は斬る」と号令し、人々は従った。精鋭を出撃させ度々賊を破った。黄巢はますます怒り必ず陳州を屠ろうと決意、州の左に「八仙営」を築いて宮闕を模し百官の官署を並べ持久戦の構えで糧を蓄えた。秦宗権も鎧仗と軍需を送り賊の勢いはさらに増した。犨は大小数百戦を交え互角の戦績を保ち人心をつなぎとめ、密かに朱全忠に援軍を求めた。まもなく汴軍が到着し西北に布陣、陳州の人々は奮い立ち、犨は兵を率いて猛攻し賊を破った。包囲は300日に及んで解けた。
  • 中和五年(885年)、彰義軍節度使に抜擢された。黄巢は敗れたが秦宗権の勢いはさらに盛んになり数千里を侵し20余州を屠ったが、陳州のみが犨によって無傷であった。功により検校司徒、さらに泰寧・浙西の両節度を兼ね(いずれも陳州にあって兼領)、龍紀初年、同中書門下平章事・忠武軍節度に進み陳州に治所を置いたまま、流亡した民も次々と戻った。弟の趙昶とは友愛深く、老いてからは軍事をすべて昶に任せ、まもなく卒し太尉を贈られた。
  • 犨は忠誠と力を尽くして孤城で賊に抗い、黄巢はついに敗滅した。しかし朱全忠に付き従ったことでその力を借りて再興を果たした面もあり、以後も他鎮に先んじて全忠への輸送・調達に努めたという。

趙昶(犨の弟)――軍功と忠武節度使

  • 趙昶は字を大東といい、神采は際立ち内面は沈着で法度を守った。孟楷を破る際に功が多かった。黄巢の包囲中、昶は夜に軍を検分し、疲れて眠っても神が守るかのようであった。夜明けに決戦し士は奮って戦い賊の首領数人を捕らえ千余級を斬った。犨が泰寧を領した際、昶は州刺史・検校尚書右仆射となった。当時、方鎮で忠義と吏治を称される者として犨・昶の名が挙がった。犨が老いると昶は留後を授かり忠武節度使に昇進、なお陳州に留まり検校司徒に進んだ。農桑を奨励し人々に恩恵を施し、同中書門下平章事を加えられた。乾寧二年(895年)卒、享年53、太尉を贈られた。

趙珝(犨の子)――治世と最期

  • 趙犨の子珝は字を有節といい、雄毅で読書を好み騎射に優れた。黄巢の乱の際、麾下を激励し全員で死守すると誓った。祖先の墓が賊に近く荒らされることを恐れ、夜に決死の士を降ろして棺を城内に取り込んだ。府庫にあった巨弩は機構が壊れ張れなかったが珝が調整を施し500歩先まで矢を届かせ人馬をも貫通させたため、賊は恐れて近づかなかった。功により検校尚書右仆射、処州刺史を遙領した。
  • 昶が忠武を率いると珝は行軍司馬に昇り、昶の死後は忠武留後を知り、政は簡にして治まり上下ともに安んじた。全忠は珝を忠武軍節度使に表薦した。陳の地は土が悪く崩れやすかったが、珝は甓(煉瓦)を重ねて城壁を築いたためその後は被害がなくなった。三度検校太保を加えられ、光化三年(900年)、同中書門下平章事に進み兼侍中となり天水郡公に封ぜられた。鄧艾の旧跡に倣って翟王渠を掘り稲田を灌漑して民を利した。趙氏一家三代の節度使が相継いで20余年、陳の人々はこれを誇りとした。
  • 天復初年(901年)、韓建が忠武を率いると珝は同州節度留後を知った。昭宗が長安に還ると入朝の詔を受け「迎鑾功臣」の号を賜り、検校太傅として右金吾衛上将軍となり帝の東遷に従った。1年余りで病により免官、享年55で卒し侍中を贈られ、陳の人々は喪に服して市を休んだ。