新唐書卷一百八十五 列傳第一百十 王徽

黄巣の乱と昭義の統治

  • 王徽、字は昭文、京兆の人。進士に及第し、校書郎を授けられた。沈詢が度支を判じ、徐商が塩鉄を領した際、いずれも使府に招いた。当初、宣宗が宰相に公主に嫁がせるべき人物を選ばせた際、ある人が徽の名を挙げた。徽はもとより名利に淡白であり、これを聞いても喜ばず、宰相の劉彖のもとに赴いて「徽は四十歳を過ぎ、しかも病が多く、選に応じるべきではありません」と述べた。彖がこれを取り成し、話は流れた。令狐綯に従って宣武・淮南の掌書記となり、召されて右拾遺を授けられた。二十余りの上書を行い、その言葉は忌憚がなく、公の議論は大いにこれを重んじた。徐商が政事を罷められ江陵を守ることになった際、心中徽を幕府に表挙したいと思っていたが、外任を彼が喜ばないのではと憚り、あえて言わずにいた。徽は自ら赴き「あなたは私を知っているのに、どうして従わずにいられましょうか」と言った。商は大いに喜び、殿中侍御史に表挙し、節度府判官とした。御史中丞の高湜が知雑事に推薦し、考功員外郎に進んだ。旧例では、考課の記録は朱で優劣を記していたが、年月を経ると消えやすく、吏がしばしば改竄して不正を働いていた。徽は初めて墨を用い、これにより偽りの欺瞞は絶えた。翰林学士に抜擢された。
  • 広明元年、盧攜が宰相を罷められると、徽は戸部侍郎・同中書門下平章事となった。この日、黄巣が関に入り、僖宗は西へ逃れ、夜を冒して出発した。徽は崔沆・豆盧瑑・仆射の於琮と共に翌朝になってようやく知り、帝を追ったが間に合わず、崖谷の間に落ちて賊に捕らえられ、無理に連れ戻され、官職を汚そうと迫られた。徽は偽って口がきけないふりをして答えず、刃で脅されても最後まで動じなかった。賊は自邸に帰らせ、医者に護らせた。久しくして守る者が油断したため河中に逃げ、絹に文を裂いて書き、人を遣って蜀に密行させた。詔により兵部尚書・京城四面宣慰催陣使を拝した。
  • 昭義の高潯は賊と石橋で戦い敗れた。その将の劉広が擅に引き返し、潞州を占拠した。別将の孟方立が広を殺し、これに乗じて邢州・洺州・磁州の三州を取り自らこれに背いた。昭義の隷属地は澤州一州のみとなった。帝は兵部侍郎の鄭昌図に一時潞州を守らせたが、士心は多く方立に付き、昌図はこれを制することができなかった。朝議は大臣に鎮撫させるべきとし、徽に検校尚書左僕射・同中書門下平章事を授け昭義節度使を領させた。この時、李克用もまた澤州・潞州を争っており、徽は朝廷の力ではまだ兵で対抗できないと考え、上表して固辞し、詔により許された。改めて諸道租庸供軍使となった。これにより行営都監の楊復光を説得し、沙陀の罪を赦し難に赴かせるよう請うた。その夏、沙陀は諸軍と合流し、ついに京師を平定し、徽の助力が多かったため、右仆射に遷った。
  • 大乱の後、宮観は焼け残り、園陵はすべて発掘され荒れ地となり、天子はまだ東へ帰る意向を示していなかった。詔により徽を大明宮留守・京畿安撫制置修奉使とした。徽は外は兵糧を調え、内は流民を慰撫して安んじ、一年余りで次第に人心がまとまり、宮殿を復興し、施策に適切さがあったため、帝に東還を請う上表をした。さらに検校司空・御史大夫に進み、京兆尹を兼権した。宦官の家々が争って人を遣り邸宅を修築させ庶民を侵害していたため訴訟が絶えなかったが、徽は権勢や寵愛に屈せず、法に基づいて公平に裁いたため、帝の側近から憎まれ、その党の薛杞を少尹として彼の権限を軽んじさせようとした。杞はちょうど喪に服していたため、徽は上奏してその赴任を止めた。これにより人々は憤り、共に徽を讒言して罷めさせ、行在に赴くよう命じられた。まもなく太子少師を授けられた。徽はそのまま河中に病と称して移り、百日を満たして免ぜられた。帝が京師に戻ると再び前の任命を申し渡したが、病を理由に参内を拒んだ。宰相はその怨望を憎み、集州刺史に貶した。折しも帝が沙陀を避けて宝鶏に出た際、帝は徽に罪がないことを思い出し、吏部尚書を拝し瑯邪郡侯に封じた。赴任前に嗣襄王李煴が乱を起こし、帝はさらに漢中に進んだ。李煴は徽を召そうとしたが、病弱を理由に自ら断った。李煴が僭称すると、群臣に誓いの文書を作らせようとしたが、徽は手が不自由であることを口実に、最後まで署名を拒んだ。李煴の乱が平定され帝が鳳翔に至ると、徽を御史大夫として召したが、足の痺れを理由に固辞し、再び太子少師を拝した。
  • 昭宗が即位すると便殿で対面し、応答は詳細で通じ合い、帝は宰相に「徽の気力はなお強い、用いてよかろう」と語り、再び吏部尚書を授けた。この頃、銓選(官吏登用)の秩序が乱れ、吏がほしいままに不正を働き、任命の重複が検証できない状態にあった。徽は自ら台帳を作り、一つ一つ実情を検証したため、不正や滞りがなくなった。右仆射に進んだ。大順元年に没し、司空を追贈され、諡は貞。
  • 系譜によれば、その先祖はもとは魏の諸公子であり、秦が魏を滅ぼすと、漢の代に関中の霸陵に移り、もと王家であったことから王氏を名乗ったという。十世祖の王羆は北周に仕えて同州刺史となり、没して咸陽の鳳政原に葬られ、子孫はこれにより杜陵に居を構えた。曾祖の王択従は兄弟四人あり、易従・朋従・言従といい、いずれも進士に及第した。鳳閣舎人にまで至った者は三人おり、それゆえ「鳳閣王氏」と呼ばれた。これより大中年間に至るまで、進士に登った者は十八人、台省・州牧の位に至った者は三十余人に及んだ。徽は高い名望を持ちながら、宰相を拝した一日のうちに京師が乱れたため、その施策で語るべきものはなかった。