新唐書卷一百七十九 列傳第一百四 王璠

経歴と横柄な言動

  • 王璠、字は魯玉。元和初年、進士・宏辞にいずれも及第し、監察御史に累遷した。威儀が整い、当時名を知られた。起居舎人として鄭覃の鎮州宣慰の副使を務めた。長慶末年、職方郎中知制誥に抜擢された。
  • 李逢吉が政権を握ると、璠を特に厚遇し、急遽御史中丞を拝した。璠はその寵を頼みに驕り高ぶり、左僕射の李絳に道で出会っても馬車を避けなかった。李絳は「左右僕射は百官の長であり、開元の頃は左右丞相と称され、機務から離れても百司を統べ、参内の日は班列の官が拝謁しても姓名を記さぬほどの尊崇を受けていた。元和中、伊慎が僕射となった際、太常博士の韋謙は伊慎の位が恩寵によるものだとして礼を削り、僕射が台に赴いて中丞に謁見するか、廷に立って中丞が来るのを待つようにさせた。これは規範を転倒させるもので、法とすべきではない」と上言した。逢吉は李絳の正しさを憚り、この件を握りつぶして奏上させなかったが、璠を工部侍郎に罷免するにとどめ、李絳もまた太子少師として東都に分司させられたため、議者はこれを不当とした。当初、璠は武昭の獄を裁いた際、逢吉が自分に恩義を感じていると思っていたので、中丞を罷められると失望した。
  • 久しくして河南尹として出た。当時、内廐の小僧たちが民を煩わせることが多かったが、璠は最も乱暴な者を殺し、遠近の者は畏れ服した。入朝して尚書右丞となり、再び京兆尹に遷った。李諒以来、政の秩序が乱れ奸豪も収まらなかったが、璠は大いに整備し、その政績で名を知られた。
  • 鄭注の奸状が露見し始めた頃、宰相の宋申錫と御史中丞の宇文鼎は密かに璠と共にこれを除く相談をしたが、璠はかえって王守澄にこれを密告し、注はこれにより璠に心服するようになった。左丞に進み、太常卿の事務を判した。浙西観察使として出た。李訓が寵を得ると、璠が李逢吉と旧交があったことから推薦され、再び左丞として召され、戸部尚書・判度支を拝し、祁県男に封じられた。李宗閔が罪を得た際、璠もその党とされたが、鄭注に取り成しを求めて免れた。訓が宦官誅殺を図ると河東節度使に任じられたが、まもなく事は敗れた。

附伝――璠子の遐休

  • 璠の子の遐休は弘文館に直していた。親しくしていた学士の令狐定や劉軻・劉軿・仲無頗・柳喜らがその邸に集まっていたため皆捕縛された。令狐定らは自ら弁明して釈放されたが、遐休は誅された。璠が潤州の外堀を掘った際、「山に石あり、石に玉あり、玉に瑕あり」と刻まれた石が出土した。術者はこれを璠の祖の名から始まり礎(璠の父)を生み、璠を生み、遐休で尽きるという予兆と解釈したという。