新唐書卷一百七十七 列傳第一百二 鄭薰

清廉な治政

  • 鄭薫、字は子溥。郷里・世系は伝わらない。進士に及第し、考功郎中・翰林学士を歴任した。宣歙観察使として出た際、前任者が治めきれずにいたところ、薫は清廉と力を尽くして治めた。牙将たちは平素驕り、共謀して薫を追い出そうとしたため、薫は揚州に逃れた。棣王府長史に貶され、東都に分司した。
  • 懿宗が即位すると太常少卿として召され、吏部侍郎に累擢された。度々大赦があり、正議光禄大夫の階に達した者は一子を蔭補させ、門に戟を立てることができた。宦官がこの階を利用して子の蔭補を請うたが、薫はこれを拒み叙用しなかった。宰相の杜悰はその人物を評価して判度支に擬したが辞退し、また刑部尚書兼御史中丞に擬したが固辞し、免れた。久しくして左丞に進んだ。友愛の情に篤く、一族百口を養い、俸禄が足りず外任を求めた。華州刺史に擬せられたが留められ、幸臣らに阻まれた。のちに太子少師で致仕した。
  • 薫は端正で剛直、二度礼部を掌り、寒門の俊才を引き立てたので士人の多くがその徳を称えた。老年になると住居を「隠巌」と号し、庭に松を植えて「七松処士」と称された。