学問と幕府歴任
- 韋表微、字は子明、隋の郿城公韋元礼の七世孫。孤児として文を能くした。母の訓戒が厳しく、すぐに食事を断ることがあり、これによりまだ叱責を受けたことがなかった。
- 韋皋が西川を鎮めた際、王緯・司空曙・独孤良弼・裴涚が幕府におり、皆表微を厚く推挙した。裴涚はかつて表微を衛玠に似ていると言い、自らは及ばないと思っていた。進士に及第し、たびたび諸使府に招かれた。
- 久しくして監察御史裏行に任じられたが楽しまず、「爵禄は滋味のようなもので、人は皆それを欲しがる。私は五十歳になり、鏡を拭い白髪を抜き、少年に混じって遊び、わずかな階級を得ても、その味わいを感じない。松菊の主人となり、陶淵明に恥じぬようにしたい」と言った。まもなく翰林学士となった。
- 当時、李紳が宰相に逆らって端州に貶され、龐厳・蔣防も皆左遷されて学士に欠員が生じ、人々は争って丞相の親しい者を推薦したが、表微だけは韋処厚を推薦し、人々はその公正さに服した。知制誥に進んだ。
- のちに処厚と学士増員を議し、また路隋を推薦した。処厚は諸父のように表微に仕えていたので、「路隋は位が高く、入れば私より上になるが、どうするか」と言うと、表微は「徳を選び賢を進めるのは、もとより私情を計らぬものだ」と答えた。久しくして中書舎人に遷った。
- 敬宗はかつて左右に「二韋(韋処厚・韋表微)を宰相にしたい」と語ったが、崩御に会った。文宗が即位すると処厚のみが宰相となり、表微は戸部侍郎に進んだ。
- 丌誌沼が叛くと、詔により李聴が軍を率いて討伐し、河上に陣を敷いた。天子は成功を得られぬことを憂えたが、表微は「李聴の軍勢からすれば十五日を出ずして必ず賊を破るだろう」と言い、勝利の捷書が届いた時は十日余りに過ぎなかった。丌誌沼の残兵六千は昭義へ逃げ込んだ。宰相は首悪を推して誅殺し、脅従した者は魏に帰そうとしたが、表微は「逆子が降ったのにまた殺せば、生を好む道ではない。李聴を史憲誠に代えて魏に置き、誌沼の徒は招納すべきだ」と上言したが聞き入れられなかった。病により学士を罷め、六十歳で没し、礼部尚書を追贈された。
- 表微は病に伏したとき医薬を十分に整えられず、住居の堂寝は狭陋であった。没した後、弔問客は嘆息した。旧知には篤く、身分が低くとも手を携えて語り笑うことに隔てがなかった。とりわけ『春秋』を好み、諸儒が一説に固執して是非が紛糾するのを憂い、『三伝総例』を著して経の趣旨を統合した。また学者が師道を軽んじ、声楽の賤しい工でさえ師を尊ぶのに及ばないことを憂い、『九経師授譜』を著してその違いを正した。