柏耆
- 縦横家の学に通じた。父の良器は当代の威名ある将だった。耆は才気盛んで功名を急いだ。王承宗の反乱が続く中、朝廷が厭戦気分にある折、耆は淮西行営で裴度に「一節を得れば舌先三寸で承宗を説得できる」と申し出、左拾遺として派遣された。大義を説いて承宗を涙させ、2州の献上と2子の人質差し出しを実現、名声を高め起居舎人に昇進。
- 王承元の義成軍転任に伴う軍の動揺を、緡銭配布の遅延で騒ぐ軍を諫議大夫鄭覃に代わって説得し鎮めた。兵部郎中・諫議大夫。太和初、李同捷の反乱討伐が長引く中、德州行営諸軍計会使として判官沈亞之と派遣され、橫海節度使李祐の德州平定を受け、同捷が投降を渋る中、耆は独断で滄州に入り功労者万洪を誅殺、同捷を伴い入朝させた。王廷湊が同捷を奇襲で奪おうとしているとの情報を得ると同捷を独断で斬首し首を献上した。
- しかし諸将が耆の功を妬んで讒言し、文宗はやむを得ず循州司戸参軍に貶し、沈亞之も南康尉に。宦官馬国亮の讒言(同捷の妻子・財貨の横領疑惑)も追い打ちをかけた。李祐が耆の万洪誅殺を知り病を悪化させ死去すると、帝は「祐が死ねば耆が殺したことになる」と述べ、旧怨も重なり愛州への長流の上、賜死となった。
史論
- 詩人は讒言する者を最も強く戒め、豺虎や北方の地に投げ捨てても足りないとした。竇群・劉棲楚のような輩は、公正を装って弾劾し、党を組んで私利を図り、その言葉は一見筋が通って聞こえるが、最後には乱敗に帰結する。孔子の言う「非を順わせて恩恵に見せかける者」「巧言が国家を覆す者」とはまさにこれを指すのではないか。柏耆は衆を出し抜いて功を独占しようとし、自ら死を招いた。哀れなことである。