楊虞卿
- 字は師臯、虢州弘農の人。父の寧は高い節操で知られ弁舌に優れた。明経に及第、臨渙主簿を辞して陽城と莫逆の交わりを結んだ。徳宗に諫議大夫として召された陽城に従い出仕、陝虢観察使李齊運の幕府から監察御史。順宗初、殿中侍御史、国子祭酒で終わった。
- 虞卿は進士・博学宏辞に及第、校書郎。友人陳商の貧窮を助けるなど義に厚かった。監察御史を歴任。
- 穆宗即位の放埒に対し、堯舜の憂天下の心を説き、辺境情勢や制度の不備を挙げ、宰相・公卿との対話を増やし諫言を重んじるべきと長文の上疏を行った。趙知微という布衣も同様に諫言し、帝は宰相を慰めたが実行には至らなかった。侍御史、礼部員外郎・史館修撰を経て吏部。曹史李賨らの偽の官職売買事件(贓千六百万以上)を摘発したが自身の親吏・私奴の関与も発覚し免官された。
- 李宗閔・牛僧孺の下で右司郎中・弘文館学士、給事中。佞柔な性格で権幸に取り入り、選挙の斡旋で私利を図った。蘇景胤・張元夫と並び「三楊」と称され「挙場に赴くなら蘇・張に問え、三楊はさらに強い」と評された。宗閔派の中核として「党魁」と呼ばれた。
- 李徳裕の拝相で常州刺史に出されるが、宗閔復権で工部侍郎、京兆尹。太和9年(835年)、鄭注が児童の肝を薬に用いるとの流言が広まった事件で虞卿家発端説を流され、注・李訓の陰謀で獄に下された。子弟の訴えで釈放されたが虔州司戸参軍に貶され、その地で死んだ。
楊漢公――虞卿の子
- 字は用乂。李絳の興元幕府から戸部郎中・史館修撰、司封郎中。父の連座で舒州刺史、湖・亳・蘇三州を転任。桂管・浙東観察使、荊南節度使、工部尚書を歴任するが荊南在任中の貪贓疑惑で秘書監に降格。国子祭酒を経て宣宗に同州刺史として起用されるが、給事中鄭裔綽・鄭公輿が「猥雑で廉潔を欠く人物を要地に据えるべきでない」と3度封還した。帝は自らの縁故を優先し強行、裔綽は商州刺史に左遷された。漢公は宣武・天平両節度使を歴任し没した。
楊汝士――虞卿の兄
- 字は慕巢。進士・宏辞に及第。牛李両派に好かれ中書舎人。開成初、兵部侍郎から東川節度使、楊嗣復(族の昆弟)と対で節度使を務め一門の栄華を極めた。刑部尚書で終わった。子の知溫・知至も進士出身で、知溫は荊南節度使、知至は宰相劉瞻に近く比部郎中知制誥だったが瞻失脚に連座し瓊州司馬に貶された。楊氏は汝士以後、貴顕の家系として静恭里に居住し、咸通後は台省・方鎮に10余人を輩出した。