新唐書卷一百七十三 列傳第九十八 裴度
裴度、字は中立。河東聞喜の人。進士出身で、憲宗朝に淮西討伐を主導し反乱鎮圧の中心を担った宰相。徳宗から文宗に至る6代に仕え、藩鎮抑制に尽力し、郭子儀(汾陽王)に比される威徳を持ったとされる。享年76、贈太傅、諡は文忠。
出自と青年期
- 裴度、字は中立、河東聞喜の人。貞元初、進士に及第、宏辞で校書郎。賢良方正異等に挙げられ河陰尉。監察御史として権勢者を鋭く批判し河南功曹参軍に左遷。武元衡の西川幕府書記を経て起居舎人。
憲宗朝前半――中書での活躍
- 元和6年(811年)、司封員外郎知制誥。田弘正が魏博六州を朝廷に帰順させた際、宣諭使として派遣され弘正の信頼を得た。中書舎人、御史中丞。宣徽五坊の小使の横暴(下邽令裴寰への冤罪)を憲宗に諫め、裴寰を救った。
- 蔡州討伐の視察から帰還後、李光顏の武勇を見込んだ進言が的中し帝の信頼を深めた。刑部侍郎を兼ねる。
刺客事件と拝相
- 王承宗・李師道が蔡州討伐を妨げるため京師に刺客を送り、宰相武元衡を暗殺、度も襲われ重傷を負ったが命拾いした(従者王義が手を切られながら賊を防いだ)。帝は「度が助かったのは天意、罷免すれば賊の思う壺」と怒り、度も無念さから討伐続行を望んだ。傷が癒えると中書侍郎・同中書門下平章事に任じられた。当時、諸道の兵が動かず内外は動揺していたが、度の拝相で情勢は安定した。
- 賓客との交流を再開させる建議、荘憲太后崩御時の礼儀使としての塚宰制度の整理、王鍔の子稷の不正献金疑惑への対処(帝の過度な追及を諫める)など、政務全般で存在感を示した。
淮西討伐の主導
- 討蔡戦が停滞する中、群臣の撤兵論に対し度は「病巣は放置すればさらに悪化する」と主張、唐鄧節度使高霞寓の敗戦後も帝は動じなかった。元和12年(817年)、宰相らが撤兵を求める中、度は自ら督戦を願い出て、門下侍郎・平章事・彰義軍節度・淮西宣慰招討処置使を拝命。都統韓弘に配慮した人事調整を行い、馬総・韓愈・李正封・馮宿・李宗閔を幕僚に配した。帝に「賊を討たねば帰らぬ」と誓い、通天御帯と護衛を賜って出陣した。
- 郾城に駐屯し軍を鼓舞、宦官による監軍統制を廃し将の指揮権を回復させ士気を高めた。まもなく李愬が夜襲で懸瓠城を落とし呉元濟を捕縛。度は蔡州に入り降兵1万を撫定した。元濟の厳酷な統治を改め、盗賊・殺人以外の刑を撤廃し夜間通行も自由にするなど寛政を敷いた。蔡州の旧兵をそのまま帳下に置き「元凶は既に捕らえた、皆わが民だ」と信頼を示した。
- 帝が梁守謙に賊将全誅の命を下した際、度は寛大な処置を主張し多くを救った。金紫光禄大夫・弘文館大学士・上柱国・晉国公、実封3千戸。
河北諸鎮の帰順と讒言
- 程異・皇甫镈が財政手腕で宰相となったことに度は3度上書して反対したが用いられず、以後奸臣が台頭する隙を与えた。
- 王承宗を弁士柏耆の説得で降伏させ徳・棣二州を献上させ、程權の入朝も実現。李師道討伐では魏博軍の進路を巡り田弘正の意見を退け、独自の戦略(河北の兵力を温存し霜降水落を待って鄆州へ迫る)を進言し的中させ師道を捕らえさせた。
- 大商人張陟の負債徴収に絡む楊朝汶の冤罪捜査の横暴を蕭俛や度が糾弾し、帝も最終的にこれを認め朝汶を処刑した。
- 帝との「君子小人」論では、外見の類似に惑わされず行動で見極めるべきと説き、帝を感心させた。しかしまもなく程異・皇甫镈の讒言で検校尚書右僕射兼門下侍郎平章事として河東節度使に出された。
穆宗朝――河北出征と京師召還
- 穆宗即位で検校司空。硃克融・王廷湊の河朔乱に鎮州行営招討使を兼ねるが、李光顏・烏重胤ら宿将が功を挙げられぬ中、度は賊境に入り将を斬るなど戦果を上げた。元稹が宦官魏弘簡と結び度の入朝を妨げようとしたため、度は稹の悪事を弾劾する上書を行い弘簡・稹を処分に追い込んだ。しかし稹はまもなく宰相に、度は司空・平章事・東都留守とされ実権を奪われた。
- 諫官らの抗議もむなしく、幽・鎮からの使者の報告(河北の忠臣・強者双方が度の朝廷不在を惜しんでいる)を機に帝が悟り、太原から召還。陛見の場での度の切実な訴えは天子の心を動かし、殊礼を持って迎えられた。度が克融・廷湊に送った書簡は道理を尽くし両者を懐柔、司徒守・淮南節度使を兼ねた。
- 昭義の監軍劉承偕が劉悟を侮辱し軍が乱れた事件で、帝の下問に対し度は当初固辞するも、最終的に「承偕を処罰し忠義の心を示すべき」と進言、太后の養子である承偕への配慮も汲みつつ流罪を提案し悟の乱を鎮めた。
敬宗朝――讒言と復権
- 徐州王智興の反乱で諸軍の統制が乱れる中、宰相就任を求める声が高まり中書侍郎・平章事を兼ねた。しかし李逢吉が険譎な人物と結んで度を陥れようとし、逢吉を襄陽から召還させたことで自らの立場を危うくし、まもなく左僕射に降格。
- 帝の急病時、度は再三内殿に立ち入り太子擁立(後の文宗)を実現させた。逢吉は復権後、度を排斥し山南西道節度使に出し平章事を奪った。
- 王廷湊が牛元翼一族を虐殺した事件で敬宗が宰輔の不在を嘆くと、学士韋処厚が度の復権を強く進言(汲黯・干木の故事を引用)、帝も感じ入り兼平章事に復帰させた。逢吉一派は讖言や地相を利用した中傷(「度の邸宅の位置が図讖に応じる」等)で度を陥れようとしたが、帝は誣告と見抜き輔政を続けさせた。
- 帝の東都巡幸計画を「宮闕の荒廃で準備不足、無理な出立は民を害する」と諫めて中止させた。硃克融の理不尽な要求(賜衣の不満、財貨・人夫の要求)にも冷静な対応策を進言し、克融の乱を平和的に収拾した。
- 帝の朝儀の緩みを、道家の養生論を引きつつ諫め、帝は視朝を増やした。
文宗朝――功成り身退く
- 帝崩御に伴い劉克明らを誅し江王(文宗)を擁立、門下侍郎。李全略の子同捷の襲位要求を討伐、財政の兼務を辞退。開府儀同三司、実封3百戸を固辞したが受けた。
- 太和4年(830年)、老病を理由に辞位を願うが帝は名医を派遣し慰留、司徒・平章軍国重事として3~5日に一度中書に出仕する形に。牛僧孺・李宗閔が度の勲業を妬み中傷したため、度は自ら辞して山南東道節度使に出た。臨漢監の廃止など軍馬制度の合理化を行った。
- 開成中、東都留守、中書令。李訓の乱で連座した人々を救う上疏を行い数十家を救済。武徳県の官吏の冤罪事件も救った。
- 晩年は洛陽の集賢里に別荘「緑野堂」を営み、白居易・劉禹錫と詩酒を楽しみ世事に関わらなかった。帝は度の老いてなお明晰な様子を気にかけ続けた。
- 開成2年(837年)、河東節度使に再任されるが老病を理由に固辞、帝の「朕のために北門を守ってほしい」との説得で赴任。易定節度使張璠没後の後継争いを説諭で収めた。
- 3年、病により東都帰還を願い中書令に真拝、上巳の宴に欠席すると帝は詩を贈って労った。使者が到着した時にはすでに没していた。享年76。帝は深く悼み詩を霊前に置いた。贈太傅、諡は文忠。京兆尹鄭復に喪を護らせた。臨終に自ら墓誌を記したが、遺奏に私事はなく皇太子の安定のみを願う内容だった。会昌元年(841年)太師を追贈、大中初、憲宗廟に配享された。
人物評
- 見た目は平凡だが精神は明晰闊達、節操堅固で対応に優れた。功業により威名は四夷に轟き、外国使節が唐に来ると必ず度の年齢・容貌・天子の信任を尋ねたという。郭子儀(汾陽王)に比される威徳を持ち、その用不用が天下の軽重を左右した。徳宗・順宗・憲宗・穆宗・敬宗・文宗の6代(実質4朝)に仕え、終始徳を全うした。没後、天下は皆その風格を偲んだ。管城に葬られ今も廟食を受ける。
裴識――度の子
- 字は通理。聡明で一度目にした経書は忘れなかった。蔭補で京兆参軍から大理少卿。劉稹討伐で供軍使、稹平定後、司農卿から湖南観察使、大理卿、晉国公の半封を襲爵。涇原節度使として、吐蕃の尚恐熱が三州七関を占拠した際、宣宗が名臣を配する中の一人として選ばれ、屯田開墾や兵器整備、辺境守備の交代制度(老親を持つ兵の近隣配置)を整備した。検校刑部尚書、鳳翔・忠武・天平・邠寧・靈武等の節度使を歴任、靈武では祈って井戸を掘り当てる逸話も残る。6鎮を治め功績を残し、没して贈司空、諡は昭。
裴諗――度の子
- 文才があり、蔭補で官途に就いた。宣宗が元和期の宰相の子を尋ね、度の勲業を思い諗を厚遇。翰林学士、工部侍郎・承旨を歴任。帝の私的な厚遇(果物や頭巾の下賜)を受けた逸話がある。太子少師・河東郡公。黄巣の乱で偽官への就任を拒み殺害された。
史論
- 憲宗の蔡州討伐は4年に及んだ。呉元濟は奸臣と結び、宰相や執政者を刺殺させ朝議を動揺させたが、帝は毅然として反対論を退け、度に政務を委ね討伐を主導させた。度自ら督戦したことで淮西平定は成った。李愬が賊を破った奇功も難事だが、度を重用し続けた帝の判断こそ真に難しいものだったと言えよう。韓愈はその功を「淮西平定は決断によって成った」と頌えたが、まさに至言である。穆宗が凡庸で佞人が隙をついて讒言したため、度は晩年に顕著な功を挙げられなかった。これは前の智慧が後に愚に変わったのではなく、用不用の勢いがそうさせたに過ぎない。旧史は度が晩節に世に阿って安全を図ったと評するが、それは誤りである。『大雅』に「既に明にして哲、以て其の身を保つ」とあるように、度を非難するには当たらない。