新唐書卷一百七十 列傳第九十五 高崇文

高崇文

  • 字は崇文。祖先は渤海から幽州に移り7代同居し、開元中に朝廷から表彰された。性は質朴寡黙。若くして平盧軍に籍を置く。貞元中、韓全義に従い長武城を鎮め軍功で知られ、金吾将軍。吐蕃3万の寧州侵攻を3千の兵で撃破し封渤海郡王。全義の入朝に伴い行営節度後務を代行、長武城都知兵馬使に昇進。
  • 劉辟の反乱に際し、宰相杜黄裳の推薦で検校工部尚書・左神策行営節度使として左右神策・麟遊奉天の諸軍を統率し討伐を命じられた。詔が出ると諸将は驚いたが、崇文は日頃から5千の精兵を準備しており、辰の刻に命を受け巳の刻には出陣するほど迅速だった。軍紀は厳格で、宿の器物を壊した兵を即座に斬った。閬州から劍門を経て梓潼の囲みを解き、東川節度使として、劉辟に殺されず投降した前節度使李康の処断(守備放棄の罪を問い斬首)を行った。
  • 鹿頭山の攻防では雨で難航しつつも万勝堆を奪取、8戦全勝で賊の士気を崩し、大将阿跌光顏の遅参からの功名挽回策も功を奏し、成都を包囲、劉辟を捕らえ京師に檻送した。成都入城時は略奪一切なく、降伏者を寛大に扱った。検校司空・西川節度副大使・南平郡王、鹿頭山に紀功碑を建てた。
  • 蜀の富裕を厭い辺境防衛への転任を自ら願い、邠寧慶節度使・京西諸軍都統。功に驕り蜀の財貨を私用に持ち出す一方、朝廷儀礼には疎く覲見を避けた。享年64で没し、贈司徒、諡は威武。会昌6年(846年)憲宗廟に配享された。

高承簡――崇文の子

  • 忠武軍から神策軍に転属。父の功で嘉王傅。裴度の蔡州討伐に牙将として従軍。蔡平定後、殷州刺史として郾城を治め、屯田開墾で200里の水害地を良田に変え、儒学振興にも努めた。邢州刺史では観察府の過重な賦役から数百戸を代わりに納税し民を救った。
  • 宋州刺史として宣武の反乱軍への対応で牢に繋いだ使者らを一斉処刑し威を示すも、徐州の救援を受けた反乱軍に囚われ軍は潰えた。兗海沂密節度使、義成軍検校尚書左僕射、右金吾衛大将軍、邠寧節度使を歴任し辺境防備を進言。病により帰途で没し、贈司空、諡は敬。孫の駢に別伝あり。