韋貫之
- 名は純、憲宗の諱を避け字で通した。後周柱国韋敻の八世孫。父の肇は中書舎人として直言を重ね元載に憎まれ左遷された(元載の誅殺後、代宗が肇を宰相にしようとしたが没した)。
- 貫之は進士に及第、校書郎から賢良方正異等で伊闕・渭南尉。招聘を断り貧窮の中で豆粥をすすって生計を立てた。長安丞から監察御史。弟の纁を自らの後任に推薦したが私情とは見なされなかった。杜佑の子從郁の補闕就任に崔群と共に反対し、「子が父の政を議するのは訓えに反する」と改任させた。禮部員外郎として新羅出身の金忠義の子への蔭補も拒み弾劾した。
- 吏部員外郎として賢良方正の対策採点への異議で果州刺史に貶され、後に都官郎中知制誥、中書舎人。裴垍の宰相在任時の助言(「進退を賭して奏上せよ」)が功を奏し、垍から後継者と目された。禮部侍郎として浮華を排し実質本位の選考を行った。「禮部侍郎は宰相より重い、なぜなら陛下の宰相を選ぶ役だから」との進言で帝を感心させた。尚書右丞、同中書門下平章事、中書侍郎。
- 呉元濟討伐に際し「鎮州(王承宗)を捨て淮西に専念すべき」と建中の乱の教訓(同時多発の乱を招いた前例)を引いて諫めたが聞かれず、結果的に蔡州平定後に鎮州も服従した。都統設置と二帥連営の弊害も予見的に指摘した。
- 段文昌・張仲素の翰林学士起用に「学士は顧問役、辞藻のみで選ぶべきでない」と反対。皇甫镈・張宿の佞幸を批判し、裴度が張宿への銀緋授与を求めた際も反対した。これにより宿らの怨みを買い吏部侍郎に左遷、連座した郭求・韋顗ら6人も貶された(うち韋顗・李正辭・韋処厚は清廉な人物だった)。
- 鹽鐵副使程异の厚敛策に従わず所属6州の税を独自に処理し、太子詹事分司東都に左遷。穆宗即位で河南尹、工部尚書に召されるも赴任前に没した。享年62、贈尚書右僕射、諡は貞、後に文と改諡。
- 人物評:沈着寡黙で偽りを言わず、尚書右丞時代に宰相を約す僧の妄言を退けた。裴均の子の墓碑銘依頼への「餓死しても書かぬ」との拒絶や、生涯賄賂を受け取らなかった清廉さが伝わる。
韋澳――貫之の子
- 字は子裴。進士・宏辞に及第。10年仕官を控えた。御史中丞高元裕が兄温の縁で澳を用いようとしたが、澳は自ら訪ねることを拒んだ。
- 周墀の鄭滑幕府から、墀の拝相時に「権を持たぬこと」を助言、無私な統治を勧めた。考功員外郎・史館修撰から翰林学士、兵部侍郎・学士承旨。宣宗の信任厚く、夜間の対話で宦官統制について問われ、太和の変の教訓を踏まえた慎重な人選を進言した。
- 京兆尹として帝の外戚鄭光の荘園吏の脱税を摘発、帝の私情による減免要求にも「陛下が私を京兆尹に任じた以上、法の一律適用を曲げられない」と拒み、太后も認めさせた。
- 戸部判使就任を再三固辞し、権勢への警戒を語った。河陽節度使、平盧軍、吏部侍郎、邠寧節度使を歴任。宰相杜審権に憎まれ秘書監に降格されるも河南尹を辞退し隠棲、後に吏部侍郎に召されるが応じず没した。贈戸部尚書、諡は貞。
- 宣宗から宰相含みの厚遇(密書での予告)を受けたが、その直後に帝が崩御し実現しなかった。地方統治の要諦をまとめた『処分語』を著した。
韋綬――貫之の兄
- 孝廉・進士に挙げられたが友人楊凝に譲り、後に明経で東都幕府に招かれた。徳宗の左補闕・翰林学士として機密政務に関与し、帝の私的な厚遇(妃の衣を掛けられる逸話)を受けた。母の老齢を理由に辞職を願うも帝は不興を示した。晩年、心の病で退官。菊の詩を巡る帝との詩文往来が伝わる。左散騎常侍で終わった。弟纁も名を知られた。
韋温――綬の子
- 字は弘育。7歳で毎日数千言を暗誦、11歳で両経に及第。父が権謁を疑い試験させると実力を認められた。監察御史の激務を辞退し著作郎、その後も親の看病に専念した。喪明けの後、右補闕として宰相宋申錫の冤罪弾劾に同僚と伏閣で抗議し名を上げた。
- 太廟修繕の遅延を巡る文宗の宦官による処理案に反対し「宗廟の重責を私(宦官)に委ねるべきでない」と諫め、将作に戻させた。尊号奉呈の議にも旱害・雪害の民の窮状を理由に反対した。
- 李徳裕に禮部員外郎に登用され、鄭注の招聘を拒否。諫議大夫として莊恪太子への諫言(父帝への朝見を怠るべきでないと)や、王晏平・尉遲璋らの不当な処遇への抗議を行った。尚書右丞として鹽鐵推官姚勖の栄転人事に反対(「能吏だからと清選に据えるべきでない」)した。
- 武宗の下で吏部侍郎、李徳裕の推薦も李漢の赦免を主張し徳裕を失望させ宣歙観察使に出た。臨終に父綬の詩を賦し「屋漏に愧じず」と語り没した。享年58、贈工部尚書、諡は孝。
- 剛直な性格で人望を集めたが、楊嗣復・李玨との対立の融和を勧め聞かれず、両者失脚時に「わが言を用いれば」と嘆いた。娘は薛蒙に嫁ぎ『女訓』を撰した。友は蕭祐のみだった。
蕭祐――韋温の友
- 字は祐之。貧しい中で孝養に努めた。李実の督税を巡る危機を代筆の巧みさで免れ推薦された。処士から左拾遺、諫議大夫、桂州観察使、贈右散騎常侍。書画に精通し、韋温から「山林の友」と呼ばれた。
史論
- 杜黃裳は謀に長け、裴垍は法を守り、李藩は剛直、韋貫之は忠実で、いずれも国家を支え憲宗中興を成し遂げるにふさわしい人物であった。子貢が孔門の高弟でありながら殖財に走り、韓安国が漢の名宰相でありながら貪欲だった例のように、黃裳も収賄で瑕疵を残したが、その忠烈の実は覆い隠せるものではない。