新唐書卷一百六十八 列傳第九十三 柳宗元

柳宗元

  • 字は子厚、河東の出身。曾祖父の柳奭は中書令となり武后に罪を得て高宗の代に死んだ。父の鎮は天宝末の乱で母を奉じ王屋山に隠れ、後に呉に移った。肅宗の平乱後、左衛率府兵曹参軍となり郭子儀の朔方府で殿中侍御史まで昇るが、竇参との軋轢で夔州司馬に貶され、後に侍御史で終わった。
  • 宗元は幼くして卓越した文才を示し、進士・博学宏辞科に及第、校書郎から藍田尉。貞元19年(803年)監察御史裏行。王叔文・韋執誼に才を認められ、政権掌握後に禮部員外郎に抜擢された。
  • 叔文失脚で邵州刺史に貶され、赴任前に永州司馬とされた。荒れた地で『離騒』に倣う文を数十篇著し、読者を悲しませた。蕭俛への書簡で「三十三歳で進士から数年で禮部員外郎に至った出世が世の妬みを買った」と述懐し、蠻夷の地での生活を嘆きつつも、賊平定の恩赦で赦免され小さな任地でも文を残し天下に貢献したいとの願いを記した。
  • 京兆尹許孟容への書簡でも同様の心情を吐露、自らを「党人中最も罪重い」とし、先祖の血脈存続への焦燥、荒れた祖墓や散逸する蔵書への憂いを綴った。古今の逆境から立ち直った先例(管仲、匡章、直不疑、鄭詹、鐘儀、叔向、范痤、蒯通、張蒼・韓信、鄒陽、賈生、兒寛、董仲舒・劉向)を引きつつ自らを励ました。
  • 著書『貞符』で、董仲舒以来の受命瑞祥説を批判し、天命は瑞祥によらず民への仁政によって得られるとする論を展開、唐の建国から10代の治世を仁と倹の政治として称えた。
  • 不遇の身を嘆く『懲咎賦』を著し、失意と孤独、天地否隔の情を吐露した。
  • 元和10年(815年)、柳州刺史に転任。劉禹錫が播州に配された際、母を思い柳州を禹錫に譲ろうとしたが、大臣の取り成しで禹錫は連州に変更された。
  • 柳州では民が男女を金銭の担保にし期限を過ぎると奴婢に落ちる慣行を改め、私財で多くを贖い、進士を目指す南方の若者が数千里を厭わず集まり教えを乞うた。「柳柳州」と呼ばれた。14年(819年)享年47で没した。
  • 若くして功名を求めたが不遇のうちに終わった。韓愈は「雄深雅健、司馬遷に似て崔・蔡も及ばない」とその文才を評した。柳州の人々は宗元を偲び、羅池に廟を建てた。