劉禹錫
- 字は夢得、自ら中山の後裔と称した。代々儒者の家系。進士・博学宏辞科に及第し文章に優れた。淮南の杜佑に招かれ書記となり、監察御史に召された。韋執誼と親しく、王叔文が皇太子の寵を得ると交わりを結び、叔文は「宰相の器」と称した。太子即位後の秘策の議論に柳宗元とともに参与し、その言はよく用いられた。屯田員外郎として度支・塩鉄の判事となり、その勢いを借りて多くの人を陥れた(武元衡・竇群・韓皋らを退けた例)。人々は「二王・劉・柳」と称し禹錫らの権勢を恐れた。
- 憲宗即位で叔文らが失脚すると連州刺史に貶され、赴任前に朗州司馬とされた。夜郎に近い地の風俗を見て屈原の『九歌』に倣い『竹枝詞』十余篇を作り、地元でも歌われた。
- 叔文党の8名は赦令があっても復権しない扱いとされたが、宰相の同情と程异の再任を機に禹錫らも遠州刺史に任じられかけたが、武元衡が執政となり諫官の反対で沙汰止みとなった。不遇の中『問大鈞』『謫九年』などの賦を著し、張九齡の左遷の故事を引いて自らの境遇を嘆いた。
- 召還後、玄都観の花を詠んだ詩で権貴を諷刺し播州刺史に出されそうになったが、裴度が老母の同行困難を理由に取り成し連州、さらに夔州刺史に軽減された。
- 学校の荒廃を憂え、釈奠の煩雑な費用(天下で年4千万に及ぶ)を削減し学校整備に充てるべきとの上奏文を宰相に送ったが用いられなかった。
- 和州刺史から主客郎中。再び玄都観を詠んだ詩で権貴に憎まれ分司東都に出された。裴度に禮部郎中・集賢直学士に推挙され、度の失脚後は蘇州刺史(政績で金紫服を賜る)、汝・同二州刺史、太子賓客を歴任。
- 才を恃んで晩年まで屈折した性格を残したが、白居易と多くの詩を唱和し「詩豪」と称された。会昌時、検校礼部尚書。享年72で没し、贈戸部尚書。自ら『子劉子伝』を著し出自と叔文党への関わりを弁明した。