新唐書卷一百六十七 列傳第九十二 王播
王播、字は明敭。太原の家系で揚州に定住。実務能力で知られ、憲宗の淮西討伐の兵站を担い、後に中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に至った。鹽鐵使を長く務めたが権利への執着が強く、羨余の進上や贅を尽くした献上が批判された。享年72、贈太尉、諡は敬。
王播
- 字は明敭、太原の家系。父恕は揚州倉曹参軍でその地に定住。弟の炎・起とともに進士に及第、播・起は賢良方正異等にも合格。盩厔尉から監察御史。李実の京兆尹在任中、道を譲らなかったことで三原令に左遷されるが職務を全うし評価を回復。駕部員外郎、工部郎中、御史中丞、京兆尹などを歴任し、実務能力で知られた。
- 李巽の下で鹽鐵副使、御史中丞、京兆尹。憲宗の淮西討伐の兵站を担い、程異を副に任じて成功させ、礼部尚書に抜擢された。皇甫镈を推薦したが用事後に忌まれ、程異に使職を代わられた。検校戸部尚書、劍南西川節度使を経て穆宗即位で復権。刑部尚書、鹽鐵使、中書侍郎・同中書門下平章事。だが河北の失陥や人望の不足から淮南節度使に出され、南方の旱害でも搾取を緩めなかったが、七里港の開削は後世まで利益をもたらした。
- 敬宗即位で検校司空。宦官王守澄への賄賂で復権への道を開き、諫官らの反対を押し切って鹽鐵使に復帰、公議の評判はさらに悪化した。文宗の下で左僕射に復帰したが、韋処厚が政務を主導する中、播は銭穀事務に終始した。享年72で没し、贈太尉、諡は敬。
- 人物評:貧しい生い立ちから身を起こし実務能力で知られたが、鹽鐵使を再任してからは権利への執着が強まり、正額を上回る羨余を毎年百万緡も進上した。淮南から帰任時には玉帯13本・銀碗数千・綾40万を献上するなど贅を尽くした。
王起――播の弟
- 字は舉之。校書郎から藍田尉、李吉甫の淮南掌書記、集賢殿直学士。元和末、中書舎人。穆宗の遊興を諫める上疏を重ね、銭徽の貢挙不正事件の再調査を任された。礼部侍郎、李の乱の討伐を播とともに進言し鎮圧に貢献、河南尹、吏部侍郎、集賢殿学士、陝虢観察使を歴任。
- 尚書左丞、戸部尚書判度支。靈武・邠・寧の荒地を営田に転用し財政負担を軽減。河中節度使として蝗害・旱害時に穀物の民間備蓄を制限する令で危機を乗り切った。兵部尚書、山南東道節度使。
- 李訓の門生として引き立てられかけたが、訓の失敗後も厚遇の廉直さから連座を免れた。皇太子侍読、太常卿・礼儀使を歴任し、文宗の厚い信頼を得て「当世の仲尼」と称された。開成3年(838年)、翰林侍講学士、太子少師。
- 治生に無頓着で家財は僮婢に横領され困窮したが、帝が月々の手当を仙韶院の費用から充てさせた。
- 武宗即位で吏部尚書、太常卿判事。4回貢挙を主宰しいずれも人材を輩出した。山南西道節度使・同中書門下平章事となり、宿儒として宰相を兼ねる異例の待遇を受けた。宣宗初、検校司空、享年88で没し、贈太尉、諡は文懿。
- 人物評:兄弟の情に厚く播の死を深く悲しんだ。学を好み天下の書を読破、忘れることがなかった。莊恪太子の哀冊を撰し評判を得た。
王龜――起の子
- 字は大年。高潔で貴族らしからぬ人柄。半隠亭を営み隠棲を好んだ。父の任地河中で山中に廬を結び、「郎君谷」と呼ばれた。武宗に召され左拾遺となるが病を理由に辞し、屯田員外郎、崔玙の副使を経て祠部郎中・史館修撰、知制誥。兄鐸の宰相就任に伴い太常少卿・同州刺史となり反乱を鎮圧、浙東観察使を経て没した。贈工部尚書。
王蕘――龜の子
- 学問に励み文才があったが、兄鐸が執政のため科挙を受けなかった。終官は右司員外郎。
王式――起の子
- 蔭仕で太子正字、賢良方正科から殿中侍御史。鄭注に近づき王守澄と交わり弾劾され江陵少尹に左遷。
- 大中中、晉州刺史として旱害の流民を救済し数千人を救った。徙安南都護として、旧都護の悪政(木柵の負担)を改め民の税を軽減、防備を強化して蛮族の侵攻を防いだ。忠武の戍卒(黄頭軍)の武威を利用して反乱の芽を摘み、占城・真臘の朝貢を実現させた。
- 寧國の仇甫の乱を討伐する将として選ばれ、十分な兵力を求めて速戦即決の効果を説き懿宗に容れられた。吐蕃・回鶻の降人や地元の兵を活用し甫を斬った。餘姚の徐澤・慈溪の陳瑊の不正を摘発し処刑した。
- 咸通3年(862年)、徐州銀刀軍の乱を検校工部尚書として武寧節度使に転じ鎮圧した。左金吾大将軍で終わった。
史論
- 裴延齡は経義を引いて主君を惑わせ、不忠を忠と偽った。徳宗は延齡・韋渠牟らに天下の成敗を諮り、自らを明君と思いながら実は不明に陥った。君臣が共に道を誤る様は、まことに戒めとすべきである。憲宗は功業樹立に鋭意であったが、皇甫镈は聚斂によって宰相の地位を得た。宰相は天下の選ぶべき人材であるべきで、一時の労を誇るだけで大任に耐えられようか。中興が完遂しなかったのには、こうした因があってのことである。