新唐書卷一百六十五 列傳第九十 權德輿

權德輿

  • 字は載之。父の臯は『卓行伝』に見える人物。7歳で父の喪に成人並みに哀哭した。若くして文章で名を知られ、韓洄・李兼の幕府、杜佑・裴胄の招聘を経て徳宗に召され太常博士、左補闕となった。
  • 貞元8年(792年)、関東・淮南・浙西の水害への上奏で、税の免除と巡撫使派遣を提言した。裴延齢の会計操作を糾弾する上疏を行った。
  • 起居舎人、知制誥、中書舎人を歴任し、両省の人員不足を訴えて制度改善を求めた。礼部侍郎として貢挙を3年掌り、公正な選考で多くの名士を輩出した。
  • 貞元19年(803年)の大旱に際して上奏し、租税免除・漕運改革・浮誇な軍実要求への批判・冤罪で退けられた者の赦免拡大などを提言した。
  • 憲宗元和初、兵部侍郎。盧從史・王承宗問題で「まず昭義の帥を選ぶべき」と提言。裴垍の病により礼部尚書・同中書門下平章事となる。王鍔の兼宰相要求に反対し阻止した。董溪・于皋謨事件では量刑を巡り「法によって公正に処すべき」と諫めた。政の寛猛を問われ仁厚重視を説いた。
  • 李吉甫・李絳の対立時に中立を保ったため罷免され、検校吏部尚書として留守東都。于頔の子の殺人事件で寛大な処置を進言。刑部尚書として格勅30篇の編纂を完成。山南西道節度使を経て、病により帰途で没した。享年60、贈尚書左僕射、諡は文。
  • 人物評:3歳で四声を知り、4歳で作詩するなど早熟で、生涯読書を怠らなかった。漢の滅亡について論じる著述を残した。多くの公卿の墓碑銘を執筆し、貞元・元和年間の搢紳の模範とされた。

權璩――德輿の子

  • 字は大圭。元和初、進士に及第。監察御史で美称を得た。宰相李宗閔の門生として中書舎人に推挙された。李訓の専横を高元裕・鄭肅・韓佽らと連名で弾劾。宗閔が貶謫されると弁護を重ねて閬州刺史に貶されたが、文宗の同情で鄭州へ移された。李訓誅殺後、璩の先見の明が評価された。