鄭絪
- 字は文明、鄭餘慶の従父行にあたる。幼くして志が高く文章に優れ、交遊する者は皆天下の名士だった。進士・宏辞の高第。張延賞の劍南節度掌書記を経て起居郎・翰林学士、中書舎人を歴任。
- 徳宗が六軍統軍を尚書に准じて功臣を処遇する制を設けた際、宦官竇文場が自らも同様の待遇を得ようとしたのに対し、絪は「宰相の任命に用いる白麻の制を宦官任命にも使うのは前例がない」と諫めた。帝は文場を戒め、以後は通常の詔書に改められた。
- 順宗が病で発語できない中、王叔文と牛美人が専権を振るい太子(広陵王)を危うくしようとした際、絪は帝に召されて太子擁立の詔を「立嫡以長」と自ら書き記し、確定させた。
- 憲宗即位で中書侍郎・同中書門下平章事、門下侍郎。盧從史が王承宗と密通していた事件で、李吉甫の讒言により絪が漏洩に関与したと疑われたが、翰林学士李絳の弁護(絪は名節を重んじる人物で、吉甫の讒言の可能性が高い)により誤解が解けた。
- 杜黄裳の削藩策には深く関与せず、在位4年で太子賓客に降格。後に検校礼部尚書・嶺南節度使、河中節度使、御史大夫、太子少保を歴任。太和中に致仕を願い太子太傅で没した。享年78、贈司空、諡は宣。
- 人物評:儒学によって身を起こし寡欲篤実で、耆徳の名臣と目された。孫の顥は万寿公主の駙馬都尉となった。