高郢
- 字は公楚。祖先は渤海から衛州に移った家系。9歳で『春秋』に通じ『語黙賦』を著して諸儒に称えられた。父伯祥が好畤尉のとき、安禄山の乱で誅されそうになった際、幼い郢が身代わりを申し出て共に助命された。
- 寶應初、進士に及第。代宗が太后のために章敬寺を造営した際、布衣の身で上疏し、寺院建立より孝徳の政治こそ肝要であり、辺境の戦費で民が疲弊する中での土木の労役は民を苦しめると諫めた。さらに上書し、天への功名を求めず徳を修めるべきと重ねて説いたが、いずれも聞き入れられなかった。
- 茂才異行の高第で咸陽尉。郭子儀の朔方掌書記となるが、判官張曇の処罰への抗議で子儀の不興を買い猗氏丞に左遷。李懐光の邠寧府佐官となり、懐光に西へ天子を迎えるよう勧めたが聞かれず、渾瑊の孤軍を守るため懐光の兵の西進を諫止し、懐光の子雋を説得して恐れ入らせた。呂鳴嶽・張延英との帰順謀議が発覚し二将は斬られたが、郢は抗弁して恥じることなく赦免された。孔巣父の死を悼み屍を撫して哭いた。
- 李晟・馬燧の推薦で主客員外郎、中書舎人、礼部侍郎(貢挙3年、名実を重んじ浮華を抑制)、太常卿を歴任。
- 貞元末、中書侍郎・同中書門下平章事。順宗の病時、王叔文一派が専権を振るう中、刑部尚書に降格された。華州刺史として仁政を敷き、駱元光旧軍への過重な糧餉負担を廃止した。太常卿、御史大夫、兵部尚書を経て尚書右僕射で致仕。享年72で没し、贈太子太保、諡は貞。
- 人物評:恭慎で人と交わらず、制誥の控えを私邸に残さず「王の言葉を私蔵すべきでない」とした。産を治めず、俸禄以上を求めなかった。鄭珣瑜と同日に拝相し、王叔文専横時に珣瑜は憂え辞したが、郢は建白せず、共に免官されたため、議者は珣瑜を賢とし郢を非難した。子は定。
史論
- 王叔文は宦官・奸臣と結んで権力を奪ったが、当時すでに太子(後の憲宗)は成人しており、朝廷に嫌疑もなかった。もし鄭珣瑜・高郢・杜佑らが断固として東宮監国を進め叔文一派を退けていれば、それは難事ではなかったはずである。ためらい安逸を貪ったのでは「なんのための宰相か」と評されても仕方がない。珣瑜は一度憤って辞したのみで、郢・佑は地位に固執したという点で、両者の優劣に大差はない。
鄭定――高郢の子
- 弁が立ち聡明で、7歳で『尚書』を読み、湯誓の「なぜ臣が君を討つのか」との問いに父郢が「天に応じ人に順う行いだ」と答えると、「命に従わぬ者を祖廟で賞し、社で戮する、これが人に順うことか」と切り返し郢を驚かせた。幼名は董二。通王氏の易学を学び、八卦を図示した独自の器具を考案した。仕官は京兆府参軍まで。