新唐書卷一百六十三 列傳第八十八 孔巢父

孔巢父

  • 孔巢父、字は弱翁。孔子37世の孫。徂来山に隠棲していたが、永王璘の挙兵への参加を拒み民籍に紛れて身を隠した。璘敗死後に名が知れ、左衛兵曹参軍から給事中に進み、徳宗の奉天避難時に河中・陝・華招討使として破賊の策を上奏した。
  • 御史大夫として魏博宣慰使を務めた際、田悦を「臣義」を説いて動揺させ、田緒が悦を殺した後は緒に軍務を委ねて事態を収拾した。李懐光を宣慰する使命を帯びた際、太子太保の官職を懐光に授ける宣詔の場で、田悦の死に巢父が関与したと疑う懐光配下の軍が暴発し、巢父と宦官啖守盈は殺害された。帝は深く悼み、尚書左僕射・諡忠を贈った。

從子 戣

  • 孔戣、字は君厳。監軍楊誌謙の専横に対し対等の態度で臨み従わせた。諫議大夫として冗官・不法な吏・未墾田・榷酤の弊害の四事を上奏した。宦官吐突承璀への賄賂事件を巡り、承璀擁護の上言をした李涉を弾劾し左遷させた。
  • 給事中として江西観察使李少和の贓罪や崔易簡の殺人事件を厳正に裁いた。信州刺史李位の謀反疑惑では宦官の専断を退け御史台での審理を実現させた。明州の淡菜貢納による労役43万人を廃止させた。
  • 嶺南節度使として属州の未納金・米・黄金税を免除し、刺史の俸給を倍増して清廉な統治を求めた。人身売買・奴婢の掠奪を厳禁し、蕃舶商人への不当な接待要求も禁絶した。海商が客死した際の資産没収規定も緩和した。容・桂二管の蛮討伐に反対しつつ、討伐で疲弊した中で自らの管轄だけは平穏に治めた。
  • 老齢を理由に致仕を望んだ際、韓愈が「憂国忘家の人材は朝に三数人しかいない」と留任を求める上疏をしたが容れられず、礼部尚書で致仕、73歳で没し、兵部尚書・諡貞を贈られた。

子 遵孺 ・ 遵孺子 緯

  • 孔遵孺は天平節度使。子の孔緯、字は化文。崔慎由・崔鉉に仕え、宰相楊収に長安尉として推薦された。方雅厳格な人柄で権要の私謁を一切受け付けず、僖宗の蜀行幸に従って御史大夫となった。李昌符の助力で行在に至り、鳳翔(李昌符の反乱)の危機を予見して梁州行幸を進言、事なきを得た。兵部侍郎同中書門下平章事に進み「持危啓運保乂功臣」の号を賜った。
  • 昭宗の代、司空を経て太保に進み、太学の復興にも尽力。宦官への礼遇を巡る対立でも筋を通した。張濬の太原討伐に賛同し失敗の責を負って左遷されたが、朱全忠の斡旋で復帰、最後は病を押して政務に復帰し、まもなく没して太尉を贈られた。

從子 戡 ・ 從子 戢

  • 孔戡、字は勝始。盧從史の跋扈を諫めたが容れられず疾を理由に洛陽へ帰った。李吉甫の招きを拒んだことを恨まれ讒言を受けたが憲宗の信任は変わらなかった。57歳で没した。
  • 孔戢、字は方挙。父の死の恩典で得た官を兄の戡に譲った。盧從史の残党の登用を防ぎ、朱泚配下の子孫の登用も拒んだ。京兆尹として旱魃の際に自ら雨乞いをし、翌夜の大雨で評判を得た。子の孔温業は吏部侍郎として地方転出を望み、宰相白敏中に「孔吏部は朝廷に留まりたがらない」と評された。