生涯
- 趙憬は字を退翁といい、渭州隴西の人。曾祖趙仁本は吏部侍郎・同東西台三品。誌行清潔で自ら誇らなかった。寶応中、泰・建二陵造営や吐蕃侵攻・飢饉の中、褐衣で節約を訴える上疏をし士林に称賛された。江夏尉から観察使府を経て太子舎人。建中初、水部員外郎、湖南観察使李承の副使、承死後代理。召還され門を閉ざし人と交わらず。李泌の推挙で殿中対策の弁論が評価され給事中。
- 貞元中、鹹安公主の回紇降嫁使副として、他の使者と異なり私的な貿易利得を求めなかった。尚書左丞、考課使劉滋の裁定を得て、自らの推挙人事の失敗(韋証の貪敗)を自己申告した廉直な逸話がある。
- 竇參の当国時、地方官に抑えられそうになったが帝が守った。竇參失脚後、中書侍郎・同中書門下平章事として陸贄と共に輔政するも、陸贄の独断的な裁決との不和もあり称病を重ねた。杜黄裳・穆贊・韋武・李宣・盧雲らが裴延齡の讒言で危機に陥った際は救護した。陸贄が裴延齡の奸を弾劾した際は同調せず、結局陸贄が罷免され趙憬が単独で当国することとなった。
- 政治の要諦(賢の選抜、節約、薄賦、寛刑)を説き、『審官六議』を上奏(宰相論・庶官論・京司闕官論・考課論・遺滯論・藩府官属論の六篇からなる詳細な人事制度改革案)。5年間の輔政を経て61歳で死去、太子太傅追贈、諡は貞憲。
- 清廉倹約で宰相の位にありながら邸宅は儒生の家のようであった。湖南観察使時代に法を守らせた令狐亙・崔儆を、宰相となってから正しく評価し登用した逸話がある。