生涯
- 常袞は京兆の人、天宝末進士及第。清廉潔白で交遊を好まず、太子正字から中書舎人に累進、応用の文才で名を上げた。宦官魚朝恩の国子監兼任に対し「儒臣の任、宦官に非ず」と反対。回紇の驕横(京師での軍人との争闘等)を警戒し早期対策を建言した。天子誕生日の諸道の奢侈な献上を批判し(漢文帝・晋武帝・宋高祖の倹約の故事を引き)撤回を求めた。仏寺の浪費も批判し民の負担軽減を訴えた。
- 元載死後、門下侍郎・同中書門下平章事、弘文・崇文館大学士、楊綰と共に執政。楊綰の温厚さに対し常袞は苛細で清廉を自任、帝は楊綰を重んじ常袞は不満を募らせた。楊綰死後、政権を独占。
- 俸禄・恩給の恣意的な配分(国子司業張参や太子少詹事趙惎らへの薄給、姻戚の優遇)で私情を露わにし、宰相家への内厨食賜を辞退させたり、政事堂と舎人院を隔てる門を塞いで威厳を示すなど、公正さより形式を重んじる面が指摘され「濌伯(無節操の意)」と揶揄された。ただし元載の売官の弊は厳に禁じた。
- 郭子儀の推挙で銀青光禄大夫・河内郡公。徳宗即位後、崔祐甫を貶する上奏をしたが帝の怒りで自らも潮州刺史に左遷された。
- 建中初、楊炎の推挙で福建観察使に復帰。学問未発達の閩地に郷校を設け自ら講義し、士風を一変させ、貢士の数も内地並みとなった。官途中に55歳で死去、尚書左僕射追贈。後世、閩人は春秋に常袞を学官で配享したという。