新唐書卷一百四十八 列傳第七十三 康日知

生涯

  • 康日知は霊州の人。祖父康植は康待賓の乱平定に功があり天山県男。若くして李惟嶽に仕え趙州刺史。惟嶽の反乱に際し別駕李濯らと共に王武俊の攻撃を巧みな弁舌(賊軍の弱さと田悦の劣勢を説く)で退け、惟嶽を討たせた。徳宗はその謀を評価し深趙観察使、実封戸二百。
  • 王武俊反乱時、部将張鐘葵の攻撃を破りその俘虜を献上。興元元年(784年)奉誠軍節度使、のち晉絳、検校尚書左僕射・会稽郡王。貞元初死去、太子太師追贈。

康誌睦(康日知の子)――生涯

  • 子の康誌睦は字を得衆といい、右神策軍から大将軍、張韶討伐の功で御史大夫、平盧軍節度使。李同捷の乱で蒲台を陥落させ武器を奪った。検校尚書左僕射、涇原節度使、会稽郡公。57歳で死去、司空追贈。

康承訓(康誌睦の子)――生涯

  • 子の康承訓は字を敬辞といい、宣宗代、天德軍防禦使として財政を整え軍を建て直し、党項の侵犯を防いだ。検校工部尚書・会稽県男、義武節度。
  • 南詔の安南侵攻に対し嶺西南道節度使として邕州を築城、南詔の深入りに対する戦いは苦戦を強いられたが、部下の夜襲で撃退に成功、戦果を誇張して報告したことが露見し嶺南東道節度使韋宙の告発で慚愧し東都分司に左遷された。
  • 咸通中、桂州戍卒の反乱(龐勛の乱)が起き、糧料判官龐勛を長とする反乱軍が徐州を占拠、周辺諸州を陥落させる大乱に発展した。朝廷は承訓を義成軍節度使・徐泗行営都招討使に任じ討伐にあたらせた。当初は苦戦したが、諸道の援軍(沙陀騎兵を含む)を得て次第に賊軍を圧倒、宿州・柳子・臨渙などの各戦で大勝、賊将張玄稔を内応させ徐州を奪還、最終的に龐勛を追い詰めて蘄県で殲滅、乱は2年で平定された。
  • 功により検校左僕射・同中書門下平章事、河東節度に転任するも、宰相路巖・韋保衡の弾劾(討伐の遅滞、私腹を肥やしたとの疑い)により蜀王傅に左遷、さらに恩州司馬に貶された。僖宗即位後、左千牛衛大将軍に復し、66歳で死去。
康傳業(康承訓の子)――生涯
  • 子の康傳業は父に従軍し鄜坊節度使で終わった。