生涯
- 魯炅は幽州薊の人。長身で書史に通じた。蔭により左羽林長上、隴右節度使哥舒翰の別奏。顔真卿の目に留まり哥舒翰から「これは節度使となる器」と評された。石堡城攻略・河曲回復の功で左武衛将軍。
- 安禄山の乱で上洛太守から南陽太守・守捉防禦使に転じ金郷公に封じられ、嶺南・黔中・山南東道の子弟五万を率いて滍水南に屯した。賊将武令珣・畢思琛らに攻められ、防戦の判断ミスから大敗し全軍が賊に降る事態となった。
- 南陽に退いて城を保ち、潼関陥落後も哥舒翰の招降を拒否。飢餓の中一年にわたり包囲に耐え(米一斗五十千、鼠一匹四百)、朝廷からの使者曹日昇の単騎入城、顔真卿の助言など多くの逸話を残しつつ持ちこたえた。
- 至徳2載(757年)5月、包囲を突破し襄陽へ脱出、賊将田承嗣を撃退した。御史大夫・襄鄧十州節度使、岐国公。両京平定後、南方は安泰を得た。
- 乾元元年(758年)淮西節度使を加え、九節度による相州包囲戦に参加するも史思明との戦いで敗走、軍の乱れが最も酷かった。鄭陳亳節度使に転任、新鄭に至り郭子儀・李光弼の敗報を聞き、羞恥のあまり服毒自殺、57歳。