新唐書卷一百四十七 列傳第七十二 王思禮

生涯

  • 王思禮は高麗人の出で営州に居を移した。父は朔方軍将。哥舒翰に従い右衛将軍・関西兵馬使。九曲討伐で処刑を免れた逸話がある。落馬して跛足になったが、玄宗は「河隴の精鋭は思禮に頼る」と重用した。
  • 安禄山の乱で哥舒翰の元帥府馬軍都将として楊国忠誅殺を密かに勧めるが用いられず。潼関陥落後、粛宗に赦され関内行営節度・河西隴右伊西行営兵馬使として武功を守った。長安平定に先駆けて入城、東京回復戦にも功があった。兵部尚書・霍国公、実封戸五百。潞・沁等州節度を兼ね、乾元元年(758年)相州包囲戦では郭子儀と共に完軍を保った。河東節度副大使として上元元年(760年)司空を加えられた(武徳以来、三公が宰輔以外で居るのは思禮のみ)。上元2年(761年)薨去、太尉追贈、諡は武烈。守りの計略に長け攻戦は苦手だったが法を厳正に保ち、太原の武備は充実していたという。