新唐書卷一百四十六 列傳第七十一 李棲筠

代々趙の人、字は貞一。安西節度使封常清の判官から粛宗の霊武幸に従い出世した剛直な官吏。元載の専横に抗して弾劾を行い、代宗から信頼されつつも元載を憚られて宰相への登用は実現しなかった。58歳で没し、吏部尚書を追贈、諡は文献。子の李吉甫は憲宗朝の宰相として財政・軍事に活躍した。

年表(3件)
  • 貞元初子の李吉甫が太常博士として若くして典故に精通する
  • 元和2年807年子の李吉甫が中書侍郎・同中書門下平章事となる
  • 元和6年811年子の李吉甫が裴垍の病免に伴い再び宰相に復帰する

生涯

  • 李棲筠は字を貞一といい、代々趙の人。幼くして父を失ったが遠大な志を持ち、荘重で寡黙、書を好み文章は簡潔で要を得ていた。族子の李華に進士を強く勧められ高第で及第。冠氏主簿から安西節度使封常清の判官、行軍司馬。粛宗の霊武幸に際し安西の精鋭七千を集めて赴き、殿中侍御史に抜擢された。
  • 御史大夫李峴の推挙で三司の詳理判官として、賊に脅されて汚名を負った者の実情を汲んで判断し、その評判は呂諲・崔器を上回った。吏部員外郎・南曹判官として選考の混乱を整理し「神明」と称された。山南防禦観察使を経て河南令。
  • 李光弼の招きで河陽の行軍司馬・糧料使、絳州刺史を歴任。楊綰の五経・秀才科新設案を支持。工部侍郎として、豪戚が独占していた鄭・白二渠の水利権益を撤廃し年間租税200万を回復させた。元載に忌まれ常州刺史に左遷されたが、旱魃対策の渠の開削、盗賊の掃討、学校の振興(孝友図を掲げるなど)で大治績を上げた。
  • 浙西都団練観察使として、江淮を脅かした賊将許杲を武力を用いず金銭による懐柔で撤退させた。学問振興も進め、豪族の戸籍不正移転を防ぐ改革も行った。
  • 元載の専横に不満を抱く代宗が剛直な大臣を求めた際、御史大夫に抜擢された。長安尉侯莫陳怤の不正な優遇人事を追及し、その背後にいた徐浩・杜済・薛邕(いずれも元載の腹心)を弾劾した。曲江の宴に出席しないなど風紀の粛正にも努めた。
  • 代宗は元載を憚って宰相への登用を控えたが、密かに諮問し多くの助言を得ていた。李棲筠は帝の優柔不断を憂い、58歳で死去、自ら墓誌を記した。吏部尚書追贈、諡は文献。善行を好み自らの短所を指摘されることを喜ぶ人柄で、天下の士から重んじられた。

李吉甫(李棲筠の子)――生涯

  • 李吉甫は字を弘憲といい、蔭により官途に就いた。貞元初、太常博士として若くして典故に精通し、昭德皇后崩御の際の礼制を整え徳宗に称賛された。李泌・竇參に重用されたが、陸贄に党派を疑われ明州長史に左遷。忠州刺史として、陸贄の左遷に際し害意を持って派遣されたが、実際には和解し人望を得た。郴・饒二州を歴任、前任者の死を巡る怪異の噂を実務的に処理し治績を上げた。
  • 憲宗即位後、考功郎中・知制誥、翰林学士。劉闢討伐に際し朝貢断絶による威圧を献策。李锜の塩鉄使拝命要求に反対し(韋皋・劉闢の先例を引いて危険性を指摘)阻止した。高崇文の鹿頭関攻めでは、四川攻略の兵站戦略(宣・洪・蕲・鄂の精兵で三峡を突く陽動策)を献策し的中させた。厳礪の大臣任用要求にも反対し、高崇文への西川授与を進言、劉闢平定に大きく貢献した。
  • 吐蕃の会盟要求には南詔との関係悪化を懸念して拒否。国境の割譲要求も見抜いて拒絶。張愔への濠・泗州返還にも反対し要害の維持を主張。中書の吏滑渙の宦官との癒着(賄賂の横行)を摘発し処刑させ、刺史の観察使への直接謁見禁止など制度改革を行った。
  • 元和2年(807年)、中書侍郎・同中書門下平章事。刺史の権限強化、猥雑な選任の是正、李锜討伐の主導(韓弘子弟の掎角策を含む)で功を上げ、贊皇県侯・趙国公に封じられた。在任1年余で36の藩鎮を交代させるなど大胆な人事を行った。
  • 裴均の派閥との対立、竇群・羊士諤・呂温らとの確執を経て病を得て一時罷免、淮南節度使に転出。在任中、逋租数百万の免除、富人・固本二塘の築造、平津堰の建設、江淮の旱害への迅速な救済など治績を積んだ。
  • 元和6年(811年)、裴垍の病免に伴い再度宰相に復帰。冗官の削減(省八百員・吏千四百員)、内外官の俸給是正、公主の墓祠の費用削減、皇族の婚姻における中人(宦官)介在の是正など多方面で改革を進めた。田季安死去時には薛平の義成軍節度使起用を進言、河北要害の地図を作成し憲宗に重用された。回鶻・吐蕃情勢への対応、宥州の復置による党項の安定化も進言し実現した。
  • 淮西討伐に際しては、田弘正の魏帰順を機に唐州の要衝化・河陽軍の再配置を進言、呉元濟討伐の内地からの好機を主張し、自ら招撫に赴くことを願い出たが許されず、まもなく57歳で急死。帝は深く悲しみ厚く葬礼を行った。淮西の地図は未完成のまま子に献上させた。諡は当初「敬憲」とされたが度支郎中張仲方の異議により「忠懿」と改められた。
  • 賢士の登用に熱心で忠臣の顕彰に努めたが、再度の宰相在任時には私怨を晴らす面もあり、李藩・裴垍の左遷に関与した。しかし畏慎で法を守り大体をわきまえていた。安邑の邸宅から「安邑李丞相」と呼ばれ、著作も多く世に行われた。没する一年前、熒惑(火星)が太微垣の上相を犯すのを見て「天が我を殺そうとしている」と述べ辞職を願ったが許されなかった。

李德修(李吉甫の子)――生涯

  • 子の李德修も志操があり、宝暦中、膳部員外郎。張仲方の諫議大夫就任時、同朝を望まず舒・湖・楚三州刺史として出た。次子の李德裕は別伝を持つ。