生涯
- 楊炎は字を公南といい、鳳翔天興の人。曾祖楊大宝は劉武周との戦いで殉節、祖父楊哲は孝行で知られ、父楊播は玄宗に諫議大夫を拝命するも辞して郷里で「玄靖先生」と号した。楊炎は容姿優れ、文才豊かながら豪気な性格。河西節度使呂崇賁の幕府から起居舎人を経て中書舎人、常袞と並び「常楊」と称された制詔の名手であった。同郷の宰相元載に見出され吏部侍郎・史館修撰、元載失脚に連座して道州司馬に左遷された。
- 徳宗の東宮時代からその名を知られ、崔祐甫の推挙で門下侍郎・同中書門下平章事。財政改革として、天下の財賦が皇帝の私的な「大盈庫」に流用されていた慣行を批判し、有司の管理に戻すよう建言、実現させた。
- さらに、租庸調制の実態と乖離が甚だしく徴税が不公平になっていた状況を憂い「両税法」を建言・施行した(現住地基準の課税、戸の主客・丁中の別を廃し貧富で差をつける、年二回の徴収など)。この改革は成功し、朝廷の財政基盤を大きく安定させた。
- 名声を得て数か月で崔祐甫の政策を多く変更し不評を買った。豊州陵陽渠の開削は失敗に終わった。元載への旧恩から原州築城を再興しようとしたが、節度使段秀実の反対を押し切って強行、涇州軍の不満から劉文喜の反乱を招いた(劉海賓により鎮圧)。また劉晏を庾準を使って讒言により誅殺させ、朝野の反発を招いた。
- 盧杞との対立が深まる中、中書舎人の職権を巡る争い、梁崇義の乱への関与疑惑、李希烈の重用への反対意見の食い違いなどから帝の不興を買い、尚書左僕射に左遷された。嚴郢との対立、田宅を巡る不正疑惑、私廟建立を巡る流言(「地に王気あり」)が重なり、三司の審理の末、崖州司馬同正に左遷される途上、55歳で賜死。
- 若い頃は名節を重んじたが、宰相となってからは私怨を晴らすことに走り、自らも述べたように「非常の福には非常の禍が伴う」との予感通りの末路となった。のち官位回復、諡は「肅愍」とされたが左丞孔戣の異議で「平厲」に改められた。
附 庾準――生涯
- 庾準は常州の人。学術なく柔媚で王縉に取り入り出世。楊炎に善しみを通じて荊南節度使、劉晏を誣告して死に至らしめた。建中3年(782年)死去、工部尚書追贈。
嚴郢――生涯
- 嚴郢は字を叔敖といい、華州華陰の人。父嚴正誨は各地の刺史を歴任。進士に及第し太常協律郎として東都太廟の神主を安禄山の乱から守り抜いた。呂諲の江陵幕府で判官を務め、方士申泰芝の不正を巡り潭州刺史龐承鼎の主張を支持したが、帝の不興を買い建州に流された。代宗初、召還され監察御史。郭子儀の幕府で判官・行軍司馬を歴任。
- 元載の推挙を得たが元載の失脚時には用いられず、御史大夫李棲筠の推挙で河南尹・水陸運使、大暦末、京兆尹として厳明な法治で治績を上げた。
- 楊炎の豊州屯田拡張策に反対し実務的な代案(内苑の稲田で費用対効果を検証)を提示したが受け入れられず。死刑・流刑の一律運用にも反対する具体的な提言を行った。楊炎の讒言で御史中丞を削られたが民衆の支持で復帰。旱魃時の減税提言も却下され大理卿に左遷。
- 楊炎失脚後、盧杞に登用され御史大夫として楊炎の罪状追及に協力、河中観察使趙惠伯を拷問で罪に落として楊炎追放に加担したことは天下から「宰相の報復に加担した」と非難された。盧杞は郢の才を忌みその後排除、費州刺史に左遷される途上、趙惠伯の柩を見て慙愧の念に沈み、まもなく病没した。