生涯
- 王翃は字を宏肱といい、并州晋陽の人。兵法を学び、才兼文武科で辰州刺史。容管経略使として、前任者らが藤・梧に僑治していた容州の奪還に自ら私財を投じて出兵し、数か月で賊帥歐陽珪を斬った。李勉の消極姿勢を説得し百余戦、俘虜七十人を得て容州を回復。哥舒晃の反乱鎮圧にも功を上げ、嶺表を平定した。金紫光禄大夫を加えられ京師に第宅を賜った。
- 吐蕃侵攻に際し河中少尹、悍将凌正の反乱未遂を機転で鎮めた。京兆尹在任中、涇原兵の反乱に巻き込まれ奉天に走り太子詹事。大理卿、福建観察使、東都留守を歴任、貞元18年(802年)死去、尚書右僕射追贈、諡は肅。盧杞との親密な関係から崔寧殺害への関与を疑われた。
王正雅(子)――生涯
- 子の王正雅は字を光謙、行いは謹厳で崔邠に重んじられた。元和初、進士。万年令として威名を上げ、京兆尹柳公綽の推薦で緋魚を賜った。汝州刺史を経て大理卿として宋申錫の冤罪を巡る争いを堅持し、死罪を免れさせた。大和中死去、左散騎常侍追贈。
王翊(兄)――生涯
- 王翃の兄王翊は謙柔な性格で山南東道節度使を歴任。代宗に純臣と評され、謹廉で知られた。死去、戸部尚書追贈、諡は忠恵。
王凝(王翊の曾孫)――生涯
- 王翊の曾孫王凝は字を成庶といい、幼くして孤児となり舅の宰相鄭肅に養われた。明経・進士に及第、礼部侍郎に累進。商州刺史として権貴と結ばず公正な財政運営を行った。湖南観察使、僖宗代に兵部侍郎・塩鉄転運使を歴任。宣歙池観察使として王仙芝の乱に対処、部将の違令を処罰し軍紀を保った。都将王涓の軽率な出撃を諫めたが涓は戦死。監軍の乱暴を戒め、賊の侵攻に備え防備を固めた。天変の凶兆にも「宣州は国の要衝、城と共に存亡する」と決意を示した。58歳で死去、吏部尚書追贈、諡は貞。