生涯
- 楊綰は字を公権といい、華州華陰の人。祖父楊温玉は武后時代の顕官。世々儒学で知られた。幼くして父を失い貧しかったが母によく仕えた。性格は沈静で書に囲まれた一室で過ごし、名を求めなかった。
- 進士に及第し太子正字。詞藻宏麗科で首席となり右拾遺に抜擢された。制挙に詩賦を加える制度は楊綰から始まった。安史の乱で粛宗に仕え、起居舎人・知制誥、中書舎人兼修国史を歴任。慣例で年長者が独占していた公廨料を均等分配に改めた。礼部侍郎として孝廉・力田科の復活を建議し、吏部で人事の公正を評価された。
- 宰相元載に疎まれ、宦官魚朝恩の死後の国子監改革の名目で国子祭酒に据え置かれたが、太常卿・礼儀使に抜擢された。元載失脚後、中書侍郎・同中書門下平章事、修国史。
- 諸州の団練使廃止、観察判官の削減、刺史の任免権を観察使から取り戻す制度改革を建言し実現。州官の月俸格差を是正し、太平期の旧制に復した。
- 病重い中でも中書で治療を受け続けたが間もなく薨去。帝は「天が朕に太平をもたらすことを許さず、なぜこうも早く楊綰を奪うのか」と嘆いた。即日司徒を追贈。諡は文貞(比部郎中蘇端が異議を唱えたが宰相常袞の陰助が発覚し蘇端は左遷、文簡の諡を与えられた)。
- 倹約を旨とし禄を親族に分け与えた。輔政の初め、御史中丞崔寛の豪奢な別荘を即日破壊させ、京兆尹黎幹の従者を大幅に削減させるなど、その風靡に感化される者が多かった。楊震・山濤・謝安に比された。