新唐書卷一百三十七 列傳第六十二 郭子儀

郭子儀――安史の乱勃発と河北平定

  • 郭子儀、字は子儀、華州鄭の人。武挙で左衛長史から単于副都護・振遠軍使を歴任、天徳軍使・九原太守を兼ねた。
  • 天宝14載、安禄山の乱に際し朔方節度使として東討。静辺軍を回復、高秀岩を破り雲中・馬邑を収復。李光弼と合流し史思明を大破、趙郡を攻略。思明の大軍に対し「敵は勝ちに驕って我を侮る、その隙を突けば必ず勝つ」と喝破し嘉山で四万を斬る大勝を収めた。
  • 哥舒翰の敗戦・玄宗の蜀行幸を受け霊武の粛宗の下に軍を移し、朝廷の威信回復に貢献。兵部尚書同中書門下平章事。房琯の陳涛斜での敗戦後、朔方軍が国家の根本となる。回紇の助けを得て河曲の賊を平定。

郭子儀――両京回復の功

  • 至徳2載、崔乾祐を潼関で破り蒲津・安邑を制圧。関内・河東副元帥として長安奪還戦(香積寺の戦い)に臨み、李嗣業の陌刀隊と回紇の奇兵の連携で6万を斬る大勝、長安を回復(「今日また官軍を見るとは」との民の歓喜が伝わる)。
  • 陝郡で安慶緒の大軍を破り洛陽も回復、司徒・代国公。乾元元年、衛州・愁思岡での勝利を経て相州包囲戦に参加するが、大風による混乱で全軍が崩れる中、朔方軍のみ河陽に整然と撤退。魚朝恩の讒言で兵権を奪われ、以後も功績にもかかわらず度々冷遇される不遇の時期が続く。

郭子儀――吐蕃侵攻と長安再回復

  • 上元期、河中・太原の兵乱鎮圧のため朔方等節度行営、汾陽郡王。粛宗の病床で「もう会えぬかもしれぬ」と涙し、河東を託される感動的な場面が伝わる。
  • 代宗立、程元振の讒言で副元帥を罷免されるが、賜った詔勅千余篇を返上して疑いを晴らした。僕固懐恩の乱・吐蕃の長安侵攻で数十騎の寡兵から立て直し、心理戦(「郭令公来る」の噂を用いた奇策)で長安を奪還、京城留守。
  • 洛陽遷都論に対し「関中は帝業の地であり、洛陽は荒廃甚だしい」と長文で反対し都を守った。僕固懐恩の乱では「彼はもと私の部将、旧恩を裏切って刃を向けられようか」と鎮静を進言し的中させた。
  • 尚書令を懇辞し謙譲を貫く一方、永泰元年には吐蕃・回紇・党項ら30万の大軍が涇陽に迫った際、単騎で回紇陣営に赴き旧交を訴え(「郭令公存命なり」と伝わると回紇が驚喜し和睦、吐蕃10万を大破)た有名な逸話が特筆される。

郭子儀――晩年の栄誉

  • 大暦年間、周智光の反乱鎮圧、吐蕃・霊武方面の防衛を歴任、邠寧慶節度使として西方を固めた。回紇との馬市の負担軽減を自ら申し出るなど誠実な姿勢を貫いた。
  • 大暦9年、吐蕃の脅威を上奏し、辺境の兵力を集中させる長期戦略を建言。老を理由に致仕を願うも許されなかった。
  • 徳宗嗣位、尚父の号を賜り太尉・中書令。建中2年、享年85で没、太師を贈られ代宗廟廷に配饗。異例の墓の規模(一品の規定を超える1丈8尺)が特別に許された。
  • 誠実で信賞必罰を貫き、程元振・魚朝恩の讒言にも即座に詔に従う姿勢で讒間を封じた。父の墓が朝恩に暴かれた際も「天譴であり人の咎ではない」と平静を保った逸話、田承嗣・李霊耀ら跋扈する藩帥からも一目置かれた逸話が伝わる。24万緡の年俸、3千人が出入りする広大な邸宅など富貴を極めたが、代宗は名を呼ばず「大臣」と敬称した。8子7婿すべて顕官という「人臣の道に欠けるところなし」との評。

子儀の子・曜

  • 沈静な性格で家事を統括、諸弟が奢侈に流れる中、朴簡を貫いた。父の遺命で四朝の下賜品を返上、盧杞政権下で親族が次々罪を得る中でも張鎰の庇護で難を逃れた。贈太子太傅・謚孝。

子儀の子・晞

  • 騎射に優れ功を挙げ鴻臚卿。河中軍乱の鎮圧、吐蕃・回紇討伐でも活躍。硃泚の乱では山谷に逃れ節を守った。子鋼が吐蕃逃亡未遂で賜死する不幸に見舞われるが晞自身は復職、太子賓客・趙国公で没。孫は承嘏。

晞の孫・承嘏

  • 字は復卿。進士及第、諫議大夫として政事の得失を論じ、鄭注の太僕卿起用に反対。刑部侍郎まで昇進、無私廉潔な人柄で帝に厚く信任されたが大任前に没した。

子儀の子・曖

  • 字は曖。昇平公主の駙馬都尉。硃泚の乱で公主と共に奉天へ脱出し徳宗に評価された。太常卿、代国公。娘は憲宗の妃となり穆宗を生み、皇太后に上った縁で贈太傅。

曖の子・釗

  • 邠寧節度使等を歴任、憲宗崩御時の廃立騒動で穆宗に「太子の職務に専念すべき」と助言し信頼を得た。西川節度使として南蛮の首領と和平を結んだ。贈司徒。

曖の子・鏦

  • 徳陽郡主の駙馬。外戚として異例の右金吾将軍。恭遜な人柄で驕らず、諫言しても草稿を必ず処分するなど慎重な性格だった。

曖の子・銛

  • 西河公主の駙馬、太子詹事宮苑閑廄使。長慶3年、急死。

曖の孫・曙

  • 徳宗の奉天行幸に従い危機を共にし、金吾大将軍まで昇進、祁国公。

子儀の弟・幼明とその子・昕

  • 幼明は謹厚だが武に拙く少府監で終わった。子昕は四鎮留後として関隴陥落後も孤軍で守り続け、徳宗より安西大都護・四鎮節度使に任じられた。

  • 賛にいう、天宝末、幽陵で反乱が起き内外が乱れた際、郭子儀は朔方の孤軍から転戦を重ね、義を貫いて振り返らなかった。天子が西走し唐の命運が風前の灯であった時、太子を輔けて王室を再興した。大乱がほぼ平定された後も讒言に遭い兵権を奪われたが、詔があれば即日出立し些かの逡巡もなく讒間を封じた。涇陽包囲では単騎で虜と対面し至誠で猜疑を解いた。唐の命数がなお永かったとはいえ、忠が日月を貫き神明の加護を得たものというべきである。李光弼らが晩年に讒言を恐れ節を全うできなかったのに対し、子儀は完名高節を貫き福禄を全うした。斉桓公・晋の文公と比べてもなお勝るというべきだろう。史臣裴垍の「権は天下を傾けるほどでも朝廷は忌まず、功は一世を蓋うほどでも君主は疑わず、驕奢を極めても議者はこれを貶さなかった」との評は、まことに至言である。その子孫の多くが功名を顕したのも、盛徳のなせるところであろう。