則天本紀論の史論家
- 沈既済、蘇州呉の人。楊炎に推挙され左拾遺史館修撰。呉兢の『則天本紀』の扱いを批判し、則天皇后を「太后」と称すべきこと、中宗・睿宗の正統性を精緻に論じた長文の議論を行ったが採用されなかった。
- 徳宗の待詔官増設策を財政・冗官の観点から諫止。楊炎失脚に連座し処州司戸参軍に左遷、のち礼部員外郎で没。『建中実録』を撰した。子は伝師。
既済の子・傳師
- 字は子言。杜佑に評価され進士及第。権徳輿・許孟容に登用され「顔子」と称された。制科にも及第、太子校書郎、史館修撰、中書舎人知制誥、翰林学士。承旨の座を「学問不足」を理由に辞退した謙虚さ。
- 湖南・江西・宣州観察使を歴任、吏治に明るく刑罰を慎重に扱った。享年59で没、贈尚書。廉潔で権門との賄賂関係を絶ち、李景讓・蕭寘・杜牧ら優秀な幕僚を輩出した。
傳師の子・詢
- 字は誠之。進士及第、浙東観察使、戸部侍郎判度支、昭義節度使として簡易な政治で人々に慕われたが、奴の私通問題から牙将の反乱に遭い一家皆殺しとなった。贈兵部尚書。
賛
- 賛にいう、唐興隆以来、史官は多かったが3百年の間に大盗の再興(安史の乱・黄巣の乱)で図典が焼失し、大中以後の史録は残らなかった。編纂者は各世代で補ったが疎漏や本末転倒が多く残念である。旧史の文体も俚俗に流れがちであった。劉知幾以来、古人を批評するに巧みだが自身の著述には拙い者が多かった。韓愈の『順宗実録』もまた議論が絶えず改訂されたことから、史を著すことの難しさが知れる。孔子門下の子游・子夏でさえ『春秋』に手を加えられなかったというのは、まことに信ずべきことである。