新唐書卷一百二十三 列傳第四十八 和逢堯

経歴と対突厥外交

  • 和逢堯は岐州岐山の人。武后の時代、鼎を背負って闕下に上書し、天子の飪食を調える手伝いをしたいと申し出た。有司はこれを咎めて「昔、桀が無道であったとき伊尹は鼎を背負って湯王のもとへ赴いた、今、天子は聖明で百司はよく調和している、あなたが調えるべき何があるのか」と述べ、逢堯は答えられず莊州に流された。十余年後、進士に及第し高第を得て監察御史に累擢された。
  • 突厥の默啜が公主との縁組を求めた際、逢堯は御史中丞として鴻臚卿を摂し使者となり返答を伝えた。默啜は貴臣頡利を派遣し「詔で送られてきた金鏤の鞍具は塗金にすぎず天子の意ではない。使者は信用できない、たとえ公主を得ても実がないなら和親を止めたい」と述べ馳せ去ろうとした。左右が動揺すると逢堯は「私は大国の使者だ、私の言葉を受け入れないなら勝手に去ればよい」と呼びかけ、その人物を引き留めて「漢の法では女婿を重んじ鞍具を送るのは長く安泰であることを願うためで、金を貴んでいるのではない、可汗は金を貪り信を貴ばないのか」と述べた。默啜はこれを聞き「漢の使者はこれまで多く来たが、これほど鉄石のような胆を持つ者はいない、態度を変えることはできまい」と述べ、礼を整えて逢堯に会った。逢堯は「天子はかつて単于都護であった、可汗と旧好を通じたいと思っている、可汗は風に向かい義を慕い冠冕を身につければ諸蕃に重んじられるだろう」と説いた。默啜はこれを信じ、髪を結い紫の衣を着て南面し再拝して臣を称し、子を入朝させた。逢堯は使命を果たした功で戸部侍郎に抜擢された。太平公主に近かったことに連座して朗州司馬に左遷され、柘州刺史で終えた。逢堯は機知に富み大事に臨んでは福を得ようと大胆に振る舞ったため、結局は権勢への追従によって身を滅ぼしたが、唐興以来使者として名を挙げた者としては逢堯が称えられている。

史論

  • 賛にいう。玄宗が蕭至忠を器として重んじたことは、なんと惑いに満ちたことか。至忠はもともと賢者ではなく、賢者の名を借りて奸利を図った、それを失うと利を求めて賢の名を捨て、艶后(韋后)に取り入り寵主(太平公主)に付き宰相の座を得て王室を離間する謀を企て、身は誅され家は破れ、汚名は永く残った。それなのに帝が源乾曜を至忠に似ているとして急いで国政を任せたのは、至忠が用いるべきでない人物であったことも乾曜が用いるべき人物であることも共に理解していなかったことになる。帝が罪をもって才を覆い隠さなかったことを称える者もいるが、それでもなお不可解で嘆かわしい。ああ、高力士はまことに腐夫(無能な男)であり庸人であって、天子の迷いを指摘することができなかった。もし「至忠は初めは賢かったが、終わりに誤らなかったとは限らない、終わりに誤ったなら、初めから賢者ではなかったことになる、陛下はよくお考えください」と言えていたなら、帝もこれまでの過ちを悟り以後を戒めることができただろう。その後、李林甫を宰相にし安禄山を将にしたのも、いずれも明察を欠いたことに起因し、身は岷陬(辺境)に追われることになった、まさに自ら招いたことと言えよう。