出自と武后期の隠棲
- 武平一は名を甄といい、字で通称された。潁川郡王武載徳の子である。博学で『春秋』に通じ文辞に巧みであった。武后の時代は禍を恐れて仕官せず、嵩山に隠れて仏道を修め、たびたび召されても応じなかった。中宗の復位後、平一は母の喪にあり無理に起居舎人に召されたが服喪の継続を願い出て許されなかった。景龍二年(708年)、修文館直学士を兼ねた。
外戚への諫言
- 当時、天子(中宗)は暗愚で柔弱、韋后は淫乱、外戚は盛んであった。平一は母方の一族に近すぎることを憂え、自ら外戚の抑制を求める上言をした。「昨年、熒惑(火星)が羽林に入り、太白が二度天を経て、太陽が欠け、月が大角を犯した。災いはみだりに起きるものではなく上下相応じるという。『詩』に『文王は小心翼翼として天帝に仕え多くの福を得た』とある。陛下は天性孝愛で外戚に恩沢を厚くしているが、私の一族だけで三等の階級、家は数侯を数え、朱輪華轂の栄華は許・史・梁・鄧の外戚をはるかに超えている。恩が篤ければ非難も積もり、位が厚ければ禍も速い、月が満ちれば必ず欠け、日が中天に至れば移る。永淳年間、王室に多難があり先聖(高宗)はやむを得ず一族を諸侯に取り立てたが、今また再び寵愛を受け高い地位を極めており、陰気が陽を凌ぎ河洛が氾濫する兆しである。昔、王氏一族の驕りに梅福が上書し、竇氏の専横に丁鴻が諫めた。皇后の一族も恩寵が過ぎれば一朝にして滅び子孫も絶える。損を思い遠く見据える策を望む」と述べたが、帝は慰めるだけで許さなかった。考功員外郎に遷った。
- 太平・安楽両公主がそれぞれ党を立てて互いに謗り合い、親貴が離反していたことを帝が憂い、和合させる方策を平一に諮ると、平一は「病が四肢にあれば経路が分かれ治しやすいが、心腹にあれば徴候が急で治りにくい。刑政の乱れは四肢の病、親族間の猜疑は心腹の患いである。『書』に『俊徳を明らかにして九族を親しくすれば、九族が睦まじくなり百姓が治まる』とある。『詩』に『その隣と親しみ婚姻はよく通じる』とある、親族は睦まじさをもって義とするものだ。しかし近頃は権貴が互いに猜み外は和して内は離れ、姻戚に怨みが結ばれ骨肉に疑いが生じている。栄達を求める者は忠款を偽り装い、諂う者は讒言を弄する。邸第の中で肩をすくめ、宦官・侍女の傍らで口を閉ざす有様で、交わりが絶え猜疑が生じ親愛が乖離し党与が生まれている。このまま霜が積もれば氷となり、禍は防ぎきれなくなる。願わくば近親の貴人を集め内殿で宴を催し、睦まじさを告げ恩情を示し、奸人を斥け讒言の道を塞いでほしい。もしなお収まらなければ、近きを措いて遠きを図り、慈しみを抑えて厳しさを示すべきだ、これは陛下の命に委ねる」と上書した。帝はその忠切さを称えたが結局用いなかった。
学識と諫言(音楽)
- 以前、崔日用が自ら『左氏春秋』の諸侯の官族に明るいと自称していた。ある日学士が集まった際、日用が平一に「あなたの文章は確かに優れているが経学を語れば負けるだろう」と挑発した。崔湜・張説は平一が該博であることを知り応戦を勧めたため、平一は疑問を出すよう求めた。日用が「魯の三桓、鄭の七穆はどうか」と問うと、平一は「慶父・叔牙・季友が桓公の三子である。孟孫氏は彘まで九世、叔孫氏は舒、季孫氏は肥まで八世続いた。鄭の穆公の十一子のうち子然と二子・子孔の三族は滅び、子羽は卿にならなかったため七穆と称され、子罕・子駟・子良・子国・子游・子印・子豊である」と答え、一座は驚嘆した。平一も日用に「斉の桓公・楚の荘王の時代、斉や楚に属した諸侯はそれぞれ何か国あったか。晋の平公・周の霊王の時代、晋・楚に属した諸侯は何か国か。晋の六卿、斉・楚の執政は何人いたか」と問うと、日用は「私は知らない、あなたは知っているのか」と答え、平一は始終を条理立てて挙げ、日用は「北面して教えを請いたい」と言い、一座は大笑した。
- のち両儀殿の宴で、帝が皇后の兄で光禄少卿の韋嬰に監酒を命じた。嬰は滑稽で機知に富み、学士たちに嘲弄を命じても嬰は何人にも対抗できた。酒がまわると胡人の襪子・何懿らが「合生」という歌を歌い、言葉が卑猥で傲慢に振る舞い、司農少卿宋廷瑜の賜った魚を奪おうとした。平一は「音楽は天の和、礼は地の序であり、礼は地に配し楽は天に応じる。心の動きが声となり物に形をなす、心の哀楽が物に感じて変化する。楽が正しければ風化も正しく、楽が邪であれば政教も邪になる、これは先王が興亡を見極めた道理である。胡楽は本来四夷の数に備えるためのものであったが、近年ますます流蕩し哀しく淫らな新曲が広まっている。王公から市井の童子まで妃主の情事や王公の名を言い立てて歌い舞う『合生』と呼ばれるものが流行っている。かつて斉の衰えには『行伴侶』、陳の滅亡には『玉樹後庭花』があった、これらはすべて亡国の音である。礼は控えめでなければ消え、楽は流れすぎれば放縦になる。願わくば流僻を退け粛雍を崇め、胡楽は四夷への備えとして以外は一切罷めてほしい。まして両儀・承慶殿は陛下が朝を受け訴訟を聞く場、大饗の際に倡優の狎れ合いで国の典礼を汚すべきではない、政務の合間の耳目の楽しみとしてなら後廷で奏すればよい」と諫めたが、聞き入れられなかった。
- 玄宗の即位後、蘇州参軍に左遷され金壇令に転じた。平一は中宗の寵愛を受けながらも、宴遊の折に詩頌によって規戒を試みつつ、はっきりと身を引くことができなかったため左遷された。しかし左遷後も名声は衰えず、開元末年に没した。孫の武元衡・武儒衡は別に伝がある。