新唐書卷一百十八 列傳第四十三 李渤

李渤は字を浚之といい、魏の申国公李発の裔。若くして仕官を望まず、兄李渉とともに廬山・少室山に隠棲した隠者だったが、元和年間に韓愈の勧めで出仕。淮西討伐に際し方策を上言して著作郎に召され、のち諫議大夫・給事中を歴任し剛直な諫言で知られた。晩年は桂管観察使として漓水の水路整備に功を挙げた。59歳で没し礼部尚書を追贈された。

年表(3件)
  • 元和初年右拾遺への召還を固辞するが韓愈の書状に心動き出仕を決意する
  • 元和九年814年淮西討伐にあたり「感・守・戦」三術を上言し著作郎に召される
  • 元和十三年818年礼楽・食貨・刑政・議都・辨讎の五事を上言する

隠棲から出仕まで

  • 李渤は字を浚之といい、魏の横野将軍・申国公李発の裔。父の李鈞は殿中侍御史であったが母を養えなかったことで世に廃された。渤はこれを恥じ仕官せず、学問に励み、次兄の李渉とともに廬山に隠棲した。列禦寇が粟を拒んで妻に怒られた話や樂羊子が金を捨てて妻に諫められた話に触れ、古の高潔な隠者である楚の接輿・老莱子・黔婁先生・於陵子・王孺仲・梁鴻の六人を選んで図に描き自ら戒めとした。のちに少室山に移った。
  • 元和初年、戸部侍郎李巽・諫議大夫韋況が交々推薦し右拾遺として召される詔が出た。河南少尹杜兼が使者を送り詔と幣を持って敦促すると、渤は「屠羊説の言葉に『地位や高禄は屠羊業より貴いが、それで我が君に妄りに施しをさせてはならない』とある。あの賤しい商人でさえ己を忘れ君を愛せた、私は栄誉を盗んで欲を満たそうとするのか、屠羊説に恥じないと言えるだろうか」と述べ、拝命しなかった。洛陽令韓愈が書を送り、朝廷の士人が渤の登場を待望している状況、当代の善政、渤が起たなければ天子は良臣を得られず君子は顕位を得られず民は恩恵を受けられないと述べ、孔子の道に照らして熟考するよう勧めた。渤の心はこの言葉に動かされ、まず東都に出て朝廷の欠政のたびに上章した。

淮西討伐から地方官まで

  • 元和九年(814年)、淮西討伐にあたり「感・守・戦」の三術を上言し、著作郎に召されて起仕した。歳余りで右補闕に遷ったが、直言で帝の意に逆らい丹王府諮議参軍に左遷、分司東都となった。元和十三年(818年)、「至徳以来天下は太平を望みながら実現しないのは人が変化に倦んでいるからだ、天が変通の運を陛下に与えたのだからこれに従い革新すべきだ、平蔡の勢いに乗じ徳で恒・兗を服すべきだ」など五事(礼楽・食貨・刑政・議都・辨讎)を上言した。
  • 渤は地方にあっても朝廷に心を寄せ、上表は四十五にのぼった。庫部員外郎に抜擢された。皇甫鎛が輔政して下から搾取していた時期、郗士美の喪を吊う途上、「渭南長源郷の戸は四百戸あったのに今は四十戸、閿郷は三千戸が今は千戸、他の州県も大抵同様だ、これは逃亡者の負担を残った者に転嫁したことが原因、井戸に石を投げるようなもので極まらなければ止まらない、聚斂の臣が下を割いて上に媚びているからだ、三年計画で改めれば人は農に戻る」と述べ、また道路の荒廃・駅馬の多死も指摘した。憲宗は驚き飛竜厩の馬数百頭を畿内の駅に配った。渤は要職の不興を買い病と称して帰った。
  • 穆宗の即位後、考功員外郎に召された。歳末の校考で、渤は宰相以下の考課を自ら評定し「宰相の蕭俯・段文昌・杜元穎らは陛下が功を求めて任じたのに至公の姿勢がなく先王の道徳を陳べず旧典を振興していない、賞罰が興廃の要なのに一人の功も表彰せず一人の不職も罷免せず邪正の別が立っていない、驪山行幸に諫めなかったのは陛下を過ちに陥れたものだ」として中下の考課を提案し、諫めた大臣には上下の考課をつけるなど詳細な評価を上奏したが返答はなかった。休暇を取っている間に馮宿が考功を代行し「考課令は年中の善悪を取るもので渤の議は旧例に違う」として渤の議は廃された。
  • 魏博節度使田弘正が渤を副使に推薦した際、李元穎が「渤は直言を売って名を得ようとし、外に方鎮と結んで尉薦を求めている、朝廷にふさわしくない」と弾劾し、虔州刺史に出された。渤は信州の移税銭二百万を還付させ、賦米二万石を免除し、冗役千六百人を廃した。観察使が上奏しその功が認められ、一年もせず江州刺史に遷った。
  • 度支使張平叔が天下の未納租税を取り立てようとした際、渤は「度支が徴収しようとする貞元二年の流戸賦銭四百四十万は、私の州の田二千頃のうち旱害で死んだ田が千九百頃に及ぶ。度支の言うままにすれば陛下は三十年分の民の未納税を大旱の折に責めることになる。私は刺史として上は詔に従えず下は民の窮状を見捨てられない、放免を願う」と上言し、詔で免除された。渤はまた湖の水利を治め、七百歩の堤を築いて渡渉の苦を除いた。

諫官としての活動と晩年

  • 職方郎中に入り、諫議大夫に進んだ。敬宗が晏朝(遅い朝見)で紫宸殿に入り、帝がなかなか出てこず群臣が屏外に立ち尽くして倒れる者も出た際、渤は宰相に「昨日晏朝を論じたのに今日はさらに遅い、諫官が主意を動かせないなら罪を待つ」と述べ、召集がかかって収まった。退いて「群臣が屏外で疲れ倒れるほどの状況が続けば憂いが積もり、小さくは旱魃や災異、大きくは兵乱を招く。三たび諫めて聞かれなければ去るのが礼だが、陛下は即位したばかり、三度目の諫言でこれ以上は社稷を危うくすることを恐れる」と上疏した。また常侍の職が諷諫を怠っているなら廃すべきだと述べた。理匭使を兼任し、大事は上聞し次は宰相に、それ以外は有司に移すという規則、有司の判断に不服なら再度匭に納められる規則、みだりな訴えは加罰する規則を建言し、詔で許可された。
  • 政治が近習に動かされ紀律が乱れる中、渤は剛直に憂いを恐れず上疏を続け、幼く昏かった天子も感じ入り、給事中を拝命し金紫の服を賜った。
  • 五坊の卒が夜間争い県人を傷つけ、鄠令崔発が怒って吏に捕らえさせたところ、その一人が宦官で釈放された。帝は大いに怒り発を御史獄に送った。恩赦・改元の折、発が囚人と共に鶏竿の下に座らされていると、中人数十人が乱打し発は顔を破られ歯を折られ危うく死ぬところで、吏が哀れんでようやく止めた。囚人は皆釈放されたが発だけは許されなかった。渤は「県令が中人を辱めた罪と中人が獄囚を殴った罪は同等、しかし県令の罪は恩赦前、中人の罪は恩赦後、それでも罰しないなら四夷は朝廷を侮るだろう」と上疏した。渤はまた「以前神策軍が幔城で京兆進食の牙盤を奪ったのに処罰されず、宦官がますます横暴になった」と述べたが、帝が左右に問うと皆「そんなことはない」と答えた。帝は渤を党派とみなし桂管観察使に左遷した。後日、宰相李逢吉らが「発は中人を暴行したが、その母は故宰相韋貫之の姉、齢八十で発の病を憂えている、陛下は孝治の折、少し猶予すべきだ」と述べると、帝は心を動かされ「諫官はこれまで発の冤罪だけを言い、この事情は語らなかった」と述べ、発を家に戻させ母を慰問させた。韋氏は詔を拝しつつ使者の前で泣きながら発を四十杖で打たせ、なお官は奪われた。文宗の代になって発は懐州長史として用いられた。
  • 桂には漓水があり海陽山から発する。秦の史祿が粤を討つため運河を掘り、馬援が徴側討伐の際に修治して補給路とした水路だが、江水の氾濫で崩れ浅くなり、輸送の度に数十戸が一艘を運ぶ有様だった。渤は旧道を浚渫し、鄣(堰)と洩(水門)を適切に整えたため舟の往来が便利になった。一年余りで病により洛陽へ帰った。大和中、太子賓客に召された。59歳で没し、礼部尚書を追贈された。
  • 渤は孤高で自ら節を持し世に迎合しなかったため、沽名(名誉を求める)だと非難する者もいたが、たびたび言論で斥けられても剛直さを崩さなかったため、節を守る者たちに尊ばれた。