新唐書卷一百十七 列傳第四十二 李昭德

雍州長安の人。父の李乾祐も剛直な官吏として知られた。武后朝で鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、洛陽の都城整備や治水に功績を挙げ、武承嗣の皇太子擁立の動きを退けるなど武后の信任を得たが、専権を批判され、のち来俊臣に謀反を誣告されて誅殺された。

年表(4件)

父李乾祐の逸話

  • 李昭徳は雍州長安の人。父の李乾祐は貞観初年、殿中侍御史であった。鄃令裴仁軌が私に門卒を使役したことで太宗が斬刑にしようとした際、乾祐は「法令は天下と共有するもので陛下の独占物ではない。仁軌は軽罪で極刑に処すのは制度に反する。刑罰が中庸を失えば民は手足の置き場を失う」と諫め、太宗の意が解けて死を免れた。侍御史に転じ、母の喪では墓の側に廬して土を負って墳を築き、帝が使者を送って弔い、その閭を表彰した。治書侍御史を経て能吏の名を得た。永徽初年、御史大夫に抜擢されたが褚遂良に憎まれ邢・魏二州刺史に出された。乾祐は剛直だが小人に近づく癖があり、親しい官吏への書状で朝廷の事情を探ったことが露見して遂良に朝廷で暴露され、流罪となった。臺(御史台)に召し返され滄州刺史。のち司刑太常伯として雍州司功参軍崔擢を尚書郎に推薦したが認められず、私にその理由を語った。後に崔擢が罪を犯し、乾祐が禁中の言葉を漏らしたことを密告して自らの罪を贖おうとしたため、乾祐は免官となり没した。

洛陽営造と権臣批判

  • 昭徳は父の気風を受け剛毅で、明経に及第し御史中丞まで昇進した。永昌初年、事に連座して振州陵水尉に左遷、のち夏官侍郎に戻る。如意元年(692年)、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事を拝命。武后が神都(洛陽)を営むにあたり、昭徳は文昌台や定鼎門・上東門などの造営を計画し立派に整えた。洛水には二つの橋があり、司農卿韋機が一つを長夏門の直下に移して民の利便を図ったため、もう一つの橋は廃されたが巨額の費用が節約された。しかし洛水が毎年侵食し補修が続いたため、昭徳は初めて石を積んで柱に代え先端を鋭くし激流を殺ぐ工法を考案し、以後洪水の被害がなくなった。まもなく検校内史となる。薛懐義の突厥討伐に行軍長史として従ったが敵に会わず帰還した。
  • 武承嗣が文昌左相となったとき、昭徳は「承嗣はすでに王であるのに機衡を掌るべきでない。父子でさえ皇位を争うのに姑と甥ではなおさらだ」と諫め、武后は驚いて「私はそこまで考えていなかった」と述べ、承嗣を太子少保に落とした。洛陽の王慶之が険佞な徒数百人を率いて承嗣を皇太子にするよう請願すると、武后は許さず、固く請う王慶之を昭徳に理由を問わせた。昭徳は王慶之を笞殺し、残党は逃げ散った。さらに「古来姪が天子となり姑のために廟を立てた例があろうか。天皇(高宗)は陛下の夫、皇嗣(睿宗)は陛下の子である。子孫に伝えて万世の計とすべきだ。陛下は天皇の遺命を受けて天下を有しながら承嗣を立てれば、天皇はもはや祭祀を受けられなくなろう」と奏上し、武后はこれを制止した。承嗣はこれを恨み昭徳を讒言したが、武后は「私が昭徳を任じて枕を高くできるのは彼が私に代わって労苦してくれているからだ、あなたの知るところではない」と答えた。ある者が洛水で赤い模様のある白石を得て「この石は赤心を示すため献上する」と言うと、昭徳は「洛水の他の石も皆謀反するというのか」と叱った。当時、来俊臣・侯思止が法を弄んで大臣を陥れ人々は怯えていたが、昭徳はたびたびその誣告を上奏し、ついに侯思止を杖殺し、その一党の勢いを挫いた。
  • しかし昭徳はしだいに権力を恣にし、衆人の批判の的となった。魯王府功曹参軍丘愔は上疏し、魏冉が秦の外戚を誅して国を安んじたのは忠であり諸侯を弱めて秦を強めたのは功であるが、独断専行を続けて主君の威を凌駕し、最後は張禄の一言で憂死した先例を引き、昭徳が乗総権綱を握り才は小さいのに任は重く、剛愎で下を軽んじ同僚を芻狗のように扱い、賞罰が苛薄で天下が口をつぐんでいると批判し、皇帝が可とした奏請さえ昭徳の一言で覆される事態を指摘した。また果毅の鄧註が『石論』数千言を著してその専恣を述べ、鳳閣舎人逄弘敏がこれを上聞した。武后はこれにより昭徳を憎むようになり、姚璹に「言われた通りなら昭徳は国に背いた」と述べ、欽州南賓尉に左遷した。まもなく監察御史に召し戻された。

誅殺

  • 万歳通天二年(697年)、来俊臣が昭徳を謀反と誣告し、まもなく俊臣自身も獄に下されて同日に処刑された。時に大雨が降り、人々は昭徳の冤罪を悲しみつつ俊臣の死を快哉とした。神龍二年(706年)、左御史大夫を追贈され、建中三年(782年)、司空を加贈された。