経歴と上疏
- 魏玄同は字を和初といい、定州鼓城の人。祖父の魏士廓は北斉で軽車将軍を務めた。玄同は進士に及第し長安令に任じられ、司列大夫まで昇った。上官儀と親しかったことに連座して嶺外に流されたが、廃されても身を持ち崩さず放浪して生計を立てた。上元初年、恩赦で戻ると工部尚書劉審礼がその才を推薦し、岐州長史を拝命。吏部侍郎に再遷し、永淳元年(682年)、中書・門下と共に承受・進止・平章事を行うよう詔された。鉅鹿男に封ぜられた。
- 選挙法の弊害を論じる上疏で、魏玄同はおおむね次のように述べた。人材が乏しいわけではないが応募者があまりに多く採用は十のうち一つにも満たず取捨が乱れている。周制では諸侯の臣は必ずしも天子が任命せず、王朝の官も一職に専任しなかった。魏晋以後、吏部に権限が集中し文書だけで人物を測るようになったのは弊害である。天下の広さ・士類の多さを数人の手に委ねることはできない。また名門子弟が学問を経ずに早く仕官することも問題である。国が人を用いるのは人が財を用いるのに似て、衰弊の時には磨いた駑馬でも使い、太平の世には俊才を選ぶべきである。三品から九品まで薦挙できる制度は良いが褒貶が不明確で、挙げる者が真剣でない。願わくば周・漢の制度に倣い、選考を分散すべきである。
- この上疏は採用されなかった。文昌左丞・鸞台侍郎・同鳳閣鸞台三品に進み、地官尚書、検校納言を歴任した。玄同は裴炎と親交を結び終始変わらなかったため「耐久朋」と呼ばれた。
誅殺
- 以前、狄仁傑が太原の運送を督して米一万斛を失い誅殺されかけたとき、玄同が救った。しかし河陽令周興はこれを知らず、たびたび朝堂で命令を待っていた。玄同が「あなたはもう帰ってよい、久しく留まる必要はない」と言うと、周興は自分を排斥したと思い恨みを抱いた。のち周興は玄同が「太后はもう老いた、皇嗣を復位させるべきだと言った」と誣告し、武后はこれを調べず家で賜死させた。享年73歳。処刑にあたり、監察御史房済が「あなたはなぜ上変して召見を得て自ら陳述しないのか」と勧めたが、玄同は「人に殺されても鬼に殺されても同じこと、告発者にはなれない」と答えた。子の魏恬は字を安礼といい、親孝行で知られ進士に及第、御史主簿となり、開元中に潁王傅に至った。