酷吏に抗した法官
- 国子博士徐文遠の孫。蒲州司法参軍として杖罰を控える仁政を行い、民に慕われた(「徐参軍の杖を受ける者は恥とせよ」と語り合われたほど)。司刑丞に累進。
- 武后の酷吏政治(周興・来俊臣・丘神勣・王弘義ら)による冤獄が横行する中、唯一正面から反論を続けた。瑯邪王沖の獄に連座した顔余慶の罪状について「赦後の連座は支党であり魁首ではない」と論じ死罪を免れさせた。
- 謀反人の死亡後の連座を止める判断、任知古・裴行本ら七人の冤罪弁護、道州刺史李仁褒兄弟の弁護など、繰り返し酷吏(周興・来俊臣)と対立しながら「鹿が庖厨に走るような定めだが、法官として正道を守る」と述べ職を続けた。
- 竇孝諶の妻龐氏の獄では自ら罪に問われかけたが「私は独り死ぬだけ、他の者は死なずに済むならよい」と泰然としていた。三度死刑判決を受けながらも動じず、後に「失出(誤って軽く出す)は臣の小過、好生(生を好む)は陛下の大德」と答えた逸話が伝わる。
- 68歳で没し司刑卿を贈られた。中宗即位後に越州都督を追贈、開元初に子惀が官を譲られ、会昌中に忠正と諡された。潘好禮が「張釈之より優れる」と評した論が付される。
有功五世孫 商
- 五世孫の商は河中節度使・山南東道節度使として突厥残種の懐柔、地方の盗賊対策(捕盗将の育成)に功を挙げ、太子太保で没した。
商子 彥若
- 商の子彦若は僖宗・昭宗朝で中書舍人から同中書門下平章事、清海軍節度使を歴任。崔胤の忌避により地方に出るが、昭宗の信任は厚かった。