遼東の白衣の勇将
- 絳州龍門の人。妻柳氏の勧めで張士貴の募兵に応じる。安市城の戦いで白衣を纏い突出して戦い、太宗に見出され遊撃将軍・雲泉府果毅に抜擢された(「遼東を得たことより勇将を得たことを喜ぶ」との言葉)。
- 高宗の万年宮行幸中、洪水を玄武門で警告し帝を救った功で御馬を賜った。
- 顯慶三(658年)年以降、高麗・契丹討伐で戦功を重ね、鉄勒討伐では「将軍三箭定天山」と歌われるほどの弓の腕を示した(三矢で三人を射殺し九姓を降した)。
- 咸亨元(670年)年、吐蕃討伐で邏娑道行軍大総管となるが、副将郭待封の命令違反により大非川で大敗、吐谷渾を失陥。除名され庶人となった(「鄧艾が蜀で死んだように、必ず敗れると知っていた」と嘆いた逸話)。
- 後に瓜州長史・右領軍衛将軍として突厥元珍を破り(「薛将軍は流刑先で死んだはず」と驚く突厥兵の逸話)、永淳二(683年)年、70歳で没した。左驍衛大将軍・幽州都督を贈られた。
仁貴子 訥
- 子訥(字慎言)は義倉の粟を私用に流用させることを拒んだ廉直な吏。安東道経略使として対突厥策を武后に献策し、幽州都督・安東都護を歴任。灤河での契丹・突厥討伐失敗で一時官爵を奪われるが、隴右防禦使として吐蕃の坌達延を武階駅・長城堡で破り復権、朔方行軍大総管を経て72歳で没し太常卿・諡昭定を贈られた。
訥弟 楚玉
楚玉子 嵩
- 楚玉の子嵩は史朝義の部将として相州を守るが僕固懐恩に降り、相衛洺邢等州節度使として高平郡王に封ぜられた。
嵩子 平
- 嵩の子平(字坦途)は鄭滑節度使として黄河の氾濫対策(旧道への通水、田七百頃の回復)に功を挙げ、平盧軍節度使として王庭湊の乱を鎮圧、魏国公。80歳で没し太傅を贈られた。
平子 從
- 平の子從(字順之)は汾州・濮州刺史として治水と備荒に功を挙げ、左領軍衛上将軍で終わった。