新唐書卷一百二 列傳第二十七 褚亮
字は希明、杭州錢塘の人。陳末より文才で知られ、隋を経て薛挙に仕えたのち秦王に帰順、文学館の「十八学士」の一人として太宗を支えた。貞観年間に散騎常侍・陽翟縣侯となり、老いて自宅で没した。
陳末隋初の文才
- 褚亮、字は希明、杭州錢塘の人。曾祖の湮、父の玠、いずれも梁・陳の間に名を知られた。亮は幼くして聡明で広く図史を見て、一度目にすればすぐに心に刻んだ。十八歳で陳の僕射徐陵を訪ね、陵は語り合ってその才を異とした。後主に召見され詩を賦させると、江總ら諸詞人がその席にいて、皆その巧みさに服した。尚書殿中侍郎に累進。隋に入り東宮学士となり太常博士に遷る。煬帝が宗廟の制度を改めようとした際、亮は古の七廟に倣うべきと請い、太祖・高祖はそれぞれ一殿とし周の文王・武王の二祧(別格の廟)になぞらえ始祖と合わせて三とし、その他は分室で祀り始祖二祧は代替わりで廃れることがないようにと提案した。実施される前に、楊玄感と親しかったことに連座し、煬帝は自身の才を誇り才ある者を妬んだためこれによって西海司戸に貶された。当時、博士の潘徽は威定主簿に貶され、亮と共に隴山に至った。徽が死ぬと亮はその葬りを行い、人々はこれを義とした。
- のち薛挙の黄門侍郎となる。挙が滅ぶと秦王が「私は命を受けて来たが、賢者を得たことを喜ぶ、公は長らく無道の君に仕えたが、労苦したのではないか」と語ると、亮は頓首して「挙は天命を知らず王師に抗おうとしました、今、十万の軍がその頸に迫っても大王は誅さず釈放される、これは私一人だけが更生を得たわけではありません」と述べた。王は喜び乗馬と帛二百段を賜り王府文学を授けた。高祖が狩猟で自ら虎を捕らえようとした際、亮は懇切に諫め帝はこれを容れた。王が征伐に出るたびに亮は軍中にあって秘密の謀議に参与し補佐の益があった。貞観年間、散騎常侍に累進し陽翟縣侯に封ぜられ自宅で老いた。
- 太宗の遼東遠征に際し子の遂良が従い、帝は亮に「かつての遠征では卿は常に軍中にいたが、今、朕は薄く討伐に出るのに君はすでに老いている、思えばこの間もう三十年になる、この言葉を思い返すと私の労苦がいかばかりであったか」と語った。今回は遂良を行かせることとし「君は一子を朕から惜しまないだろう、善く居って加食(栄養)を摂れ」と述べ、帝は頓首して謝した。病に倒れると帝は医師と中使を送り見舞いが絶えなかった。卒、享年八十八、太常卿を贈られ昭陵に陪葬、諡は康。遂良には別伝がある。
- 当初、武徳四年(621年)、太宗は天策上将軍となり、寇乱がおおむね平定されると儒を尊び、宮城西に文学館を設け賢才を集めた。ここで教令を発し、大行台司勳郎中杜如晦、記室考功郎中房玄齡、于志寧、軍諮祭酒蘇世長、天策府記室薛収、文学の褚亮・姚思廉、太学博士の陸德明・孔穎達、主簿李玄道、天策倉曹参軍事李守素、王府記室参軍事虞世南、参軍事の蔡允恭・顏相時、著作郎攝記室の許敬宗・薛元敬、太学助教の蓋文達、軍諮典簽の蘇勖、いずれも本官のまま学士とした。七年(624年)、収が卒すると東虞州録事参軍の劉孝孫を改めて招いて補った。三班に分けて閤下に交代で宿直させ、みな珍膳を給された。暇のたびに政事を諮問し墳籍を討論し前代の文献を検討し、常礼にとらわれない交わりであった。閻立本に肖像を描かせ、亮に賛を作らせて名字爵里を題し「十八学士」と称し書府に蔵し礼賢の重んじられ方を示した。当時、選ばれた者は天下の羨望の的となり「登瀛洲(仙境に登る)」と呼ばれた。
附 劉孝孫
- 劉孝孫は荊州の人。祖父の貞は周の石臺太守。孝孫は若くして名を知られた。大業末、王世充の弟杞王辯の行台郎中となる。辯が降ると、皆は逃げ去ったが孝孫だけは援を求めて号泣し郊まで見送った。貞観六年(632年)、著作佐郎・呉王友に遷る。諮議参軍を歴任。太子洗馬に遷ったが拝命前に卒した。
附 李玄道
- 李玄道は元来隴西の人。代々鄭州に住んだ。隋に仕え齊王府属となる。李密が洛口に拠ると記室を署した。密が敗れると王世充に捕らえられ、人々が恐れて眠れずにいる中、玄道だけは「死生は命なり、憂えても仕方がない」と言って安眠した。世充に謁見した際、辞色を曲げず釈放され著作佐郎となった。東都平定後、秦王府主簿となる。貞観初、給事中に累進し姑臧縣男を賜った。幽州長史として出て都督王君廓を補佐し、専らに府事を治めた。君廓が不法な行為をするたびに義をもって裁き糾した。かつて玄道に婢を贈ろうとしたが、良家の子女が掠奪されたものだったため送り返し受け取らず、これにより始めて確執が生じた。君廓が入朝した際、玄道は房玄齡に書を送ったが、玄齡は元来玄道の甥にあたる。君廓がこの書を発見したが草書を読めず玄道が自分を陥れる謀と疑い、ついに反乱を起こした。これに連座し巂州に流されたが、まもなく常州刺史に抜擢され風績が清簡であったため褒賞の詔と繒帛を賜った。久しくして致仕し銀青光禄大夫を加えられ俸禄をもって自宅に戻り卒した。
附 李守素
- 李守素は趙州の人。王世充平定後、天策府倉曹参軍に召され、氏姓の学に通じ世に「肉譜(生き字引の系譜学者)」と称された。虞世南が守素と人物を論じる際、まず江左・山東の人物については互いに応答したが、北地の人物になると笑って答えなかった、そして「肉譜は恐るべきものだ」と嘆じた。許敬宗は「倉曹という名は雅とは言えないだろう、改めるべきだ」と述べたが、世南は「昔、任昉が経学に通じ、当時『五経笥(五経の箱)』と称された、今、倉曹を『人物志』と呼べばよいのではないか」と答えた。当時、渭州刺史李淹もまた譜学に明るく、守素の論に対抗できたのは淹だけだった。