新唐書卷一百二 列傳第二十七 李百藥
字は重規、定州安平の人。隋の内史令李德林の子。隋末は乱世に翻弄されるが、唐に仕えて中書舎人・礼部侍郎を歴任、『封建論』で分封を諌止した。『齊史』の撰者としても知られる。享年八十四で没。
出自と隋末の流転
- 李百藥、字は重規、定州安平の人。隋の内史令李德林の子。幼くして病がちで、祖母の趙氏が「百薬」と名付けた。七歳で文を作り、父の友人陸乂らが共に徐陵の文章を読み「琅邪の稲を刈る」という一節があり由来が分からず嘆いていると、百薬が進み出て「『春秋』に『鄅子藉稲』とあり、杜預はこれを琅邪の地としています」と答え、客はみな驚き「奇童」と呼んだ。廕により三衛長に補された。性格は疎放で酒を好んだ。開皇初、太子通事舍人・兼学士を授かった。讒言を受けるたびに病と称して職を辞した。十九年(599年)、仁寿宮に召され父の爵安平公を襲いだ。僕射楊素・吏部尚書牛弘がその才を愛し礼部員外郎に署した。詔を受け五礼・律令・陰陽書を定めた。
- 当初、病を理由に舍人を辞した際、煬帝は揚州にいて召しても赴かなかったことを恨んでいた。即位すると爵を奪い桂州司馬に落とした。官が廃されると郷里に戻った。大業九年(613年)、会稽の防衛に就いた際、管崇の乱で城の守備に功を挙げた。帝はその名を思い出し虞世基に「この者はまだ健在なのか、醜処に斥けるべきだ」と語り、建安郡丞に任じた。烏程に至った際、江都の難(煬帝弑逆)が起こると、沈法興・李子通・杜伏威が互いに滅ぼし合う中、百薬は乱世に翻弄され幾度も偽の官に任じられ危うく死にかけた。高祖が使者を送り伏威を招いた際、百薬は入京を勧めたが、伏威は途中で後悔し百薬を石灰酒で毒殺しようとし、瀕死の下痢を起こしたがその後長患いの病がすべて治ったという。伏威は輔公祏に書を送り百薬殺害を命じたが、王雄誕がこれを保護して免れさせた。公祏が反乱を起こすと吏部侍郎を授かった。ある者が「百薬は公祏と共に反逆した」と帝に告げ、帝は大いに怒った。乱の平定後、伏威が公祏に送った書が発見され疑いは晴れたが、なお涇州司戸に貶された。
貞観の献策
- 太宗が涇州に至った際、召して語り合い喜んだ。貞観元年(627年)、中書舎人を拝命し安平縣男に封ぜられた。翌年、礼部侍郎に除される。時に諸子・功臣への封建(分封)が議論されたが、百薬は『封建論』を上呈し理を尽くして詳細に論じ、帝はその言葉を容れ封建の議論を止めた。四年(630年)、太子右庶子を拝命。太子(承乾)がしばしば度を過ぎた戯れをしたため『贊道賦』を作って諷諫した。後日、帝は「朕は卿の賦を見た、古の儲貳(太子)の事を述べ勧励が甚だ詳しい、卿を任じたことは実に望んだ通りだった」と述べ、彩三百段を賜った。散騎常侍に遷り、左庶子・宗正卿に進み子爵を賜った。久しくして固く致仕を願い出た。帝はかつて共に『帝京篇』を詠み、その巧みさに感嘆し手詔で「卿はなぜ身は老いても才は壮んで、齢は宿しても意は新たなのか」と述べた。卒、享年八十四、諡は康。
- 百薬は名臣の子であり才行は世に顕れ、天下に重んじられた。父母の喪に際しては郷里まで徒歩数千里を行き、喪が明けても数年にわたり容貌がやつれたままであった。後進を推薦することを好み、俸禄は親族と分かち合った。文才は沈鬱で豊かであり、特に詩に長け樵夫や下働きの者までがこれを口ずさむほどだった。撰した『齊史』は当世に流布した。
子 安期
- 子の安期。安期もまた七歳で文を作った。父が桂州に貶された際、盗賊に遭い刃を加えられそうになったとき、安期は跪いて泣き身代わりを願い出て、盗賊はこれに哀れみを覚え釈放した。貞観初、符璽郎となる。主客員外郎に累進。高宗の即位後、中書舎人・司列少常伯に遷り、しばしば国事の決定に関与した。帝が侍臣に賢者の推挙が少ないことを責めた際、誰も答えられなかった中、安期は「十戸の邑にも忠信の者があると申します、まして天下は至って広い、賢者がいないはずがありません。近ごろ公卿が誰かを推薦すると、みな朋党の疑いをかけられ、埋もれた者は救われず推薦者自身が謗られます、それゆえ人々は争って口を噤み謗りを避けようとしています。もし陛下が親疎の別を忘れ広くこれを受け入れ、ただ才のみを用い讒言を塞げば、誰が忠を尽くして陛下に上聞しようとしないことがありましょうか」と進言し、帝はこれを容れた。まもなく検校東台侍郎同東西台三品を兼ね、荊州大都督府長史として出た。卒して諡は烈。
- 李德林から安期に至るまで三代にわたり制誥(詔勅の起草)を掌り、孫の羲仲もまた中書舎人となった。