新唐書卷一百 列傳第二十五 姜師度

姜師度

  • 姜師度、魏州魏の人。明経に及第、丹陵尉・龍崗令に任じられ清廉と評された。神龍初年、易州刺史・河北道巡察に試用され支度営田使を兼ねた。土木の興作を好み、薊門に溝を築いて奚・契丹を制限し、魏武帝(曹操)の旧跡に沿って海に平虜渠を掘り輸送路を通じさせ海運を廃して功費を大いに省いた。司農卿に遷る。陝州刺史として出た。太原倉は水陸の運輸の要衝であったが、師度は高地に廥(倉庫)を築き舟に米を積む方式で無理なく通させた。太子詹事を拝命。
  • 玄宗が営州の治所を柳城に移すと、営田支度脩築使を拝命。河中尹に進む。安邑の塩池が涸れて廃されていたのを師度は大々的に卒を動員し流れを引いて塩屯を設置し、公私に多大な利益をもたらした。同州刺史に転じる。さらに洛水を分けて朝邑・河西の二県を灌漑し、河を堰き止めて通霊陂を灌漑し、放棄地二千頃を上田に変え十余の屯を設けた。帝が長春宮に行幸しその功を称賛する詔を下し金紫光禄大夫を加え帛三百匹を賜った。将作大匠に進む。左拾遺劉彤が天下の塩鉄の利を官に収め貧民の賦を免じることを提案し、詔で戸部侍郎強循と師度が共に御史中丞を仮に兼ね諸道按察使と協議しその方法を定めることになったが、議者に阻まれて実施されなかった。卒、享年七十余。
  • 師度は水路の開削を好み、赴く先々で労役が多かったが必ずしも便利とは限らなかった、しかし成し遂げたものは後世の利益となった。この頃、太史令傅孝忠は星占いで名を馳せており、時に「孝忠は天を仰ぐことを知り、師度は地を相することを知る」と評され、両者の嗜好を嘲るものだった。

附 強循

  • 強循、字は季先、鳳州の人。雍州司士参軍に累進。華原には泉がなく人畜がしばしば暑さで死んだ。循は民に水路を教え田を潤し一帯に利益をもたらし「強公渠」と呼ばれた。詔書で厚く褒美を賜った。大理少卿・太子右庶子を歴任。政事は事務処理に優れ威厳によらず、人と接するには全て信じて疑わなかったが、当時は文才に乏しいことを惜しまれた。