新唐書卷九十九 列傳第二十四 崔仁師

定州安喜の人。史才を認められ史官を務め、青州の謀反事件では仁恕をもって取り調べ多くの無実者を救った。太宗に才を認められ給事中・中書侍郎を歴任するが、褚遂良の妬みにより連州に流された。永徽初年、簡州刺史として没した。

年表(3件)
  • 武徳初制挙に抜擢され、陳叔達の推薦で梁・魏の史編纂に加わる
  • 貞観二十二年(648年)、中書侍郎に遷り機務に参与するが、褚遂良に妬まれ連州に流される
  • 永徽初年簡州刺史を拝命し卒する

隋末唐初の司法官

  • 崔仁師、定州安喜の人。武徳初、制挙に抜擢され管州録事参軍に任じられた。陳叔達は仁師が史官の才があると推薦し右武衛録事参軍に遷り梁・魏の史の編纂に加わった。貞観初、殿中侍御史に改まる。青州で謀反を企てた男の一件で、有司が党与を捕らえたところ多くが投獄されたため、仁師に取調べの命が下った。到着すると囚人の枷をすべて外し食事を用意し湯を飲ませ情理をもって尋問し、首謀者十余人のみを罪に留め残りはみな釈放した。大理少卿孫伏伽が「釈放された者は多いが、誰が進んで死を受け入れようか、審決の場で状況が変われば困るのではないか」と危惧すると、仁師は「獄を治めるには仁恕を第一とすべきだ、諺に『人を殺すにも足を切るにも礼をもってせよ』と言う、どうして無実と知りつつそれを申し立てず自分の身のためだけを謀れようか、私が一人で十人の囚人の命に代えられるならそれこそ望むところだ」と述べた。勅使の再審の際、囚人たちは口をそろえて「崔公は仁恕、決して枉げることはない」と述べ、みな異議なく従った。これにより仁師は名を知られた。度支郎中に遷る。かつて口頭で数千に及ぶ費用の移用を陳述し太宗が不審に思い、黄門侍郎杜正倫に帳簿を持たせ仁師と照合させたところ一つの誤りもなく、帝はその才に驚いた。当時、校書郎王玄度が『尚書』『毛詩』に注を付し孔安国・鄭玄の旧説に対抗し廃止を求めていた。詔で諸儒に大議論させたが博士以下は誰も反論できなかった。河間王孝恭は孔・鄭と並行させるべきと提案したが、仁師は玄度の説が経に基づかず大義に合わない点を条件立てて上奏し、玄度の説は退けられた。
  • 給事中に遷る。当時、有司が律の「反逆者は兄弟に連坐して官奴とする」規定を軽すぎるとし、八座に議論を命じた。多くの者が漢・魏・晋では謀反は三族を夷すとして、死罪に改めるべきと述べた。仁師は「父子は天属の関係にあり、その心を縛るのに十分です、これを憐れまずにどうして兄弟を惜しめましょうか」と反論した。房玄齡は「祖父の廕は孫に及ぶという義があります、それは孫祖の関係が親しく重いのに対し兄弟の関係は軽いからです。今、重いはずの者を流罪とし軽いはずの者を死罪とするのは、刑の趣旨に反します」と述べ、結局改められなかった。
  • のち密かに魏王を太子に立てるよう請願し帝の意にそぐわず鴻臚少卿に左遷。まもなく民部侍郎に進む。遼東遠征に際し韋挺の海運を副として補佐し、さらに河南の漕運も別に統括した。仁師は漕路が遠回りであることから輸送が間に合わないことを恐れ、便宜により近海の租賦を発して軍に給した。運卒の逃亡を報告しなかった罪に連座し除名された。帝が中山に戻ると中書舎人・検校刑部侍郎に起用された。翠微宮への行幸に際し『清暑賦』を献じて諷諫した。帝はこれを称え帛五十段を賜った。二十二年(648年)、中書侍郎に遷り機務に参与、格別の厚遇を受けた。中書令褚遂良がこれを妬み、伏閤(宮門で直訴すること)で訴える者があった際、仁師が即座に取り計らわなかったことで帝は激怒し連州に流された。永徽初年、簡州刺史を拝命し卒した。

孫 湜

  • 子の挹、挹の子の湜。湜、字は澄瀾。若くして文才で知られた。進士に及第、左補闕に累進し考功員外郎に転じた。桓彥範らが国政を握っていた頃、武三思の陰謀を恐れ湜を引き入れ密かに彼らの動向を探らせた。中宗が功臣をしだいに疎んじ三思がますます寵愛を受けると、湜は逆に彦範らの計画を三思に告げ、驟かに中書舎人に昇進した。彦範らが左遷されると湜はさらに彼らを速やかに殺害し人望を絶つよう説いた。三思が誰を使者に立てるか尋ねると外兄の周利貞を推薦した。利貞が赴くと彦範らはみな死んだ。利貞は御史中丞に擢された。湜は昭容上官氏に取り入り、外でしばしば密通した。景龍二年(708年)、兵部侍郎に遷り、挹は礼部侍郎となった。武徳以来、父子が同時に侍郎となったのは挹・湜のみであった。まもなく中書侍郎・検校吏部侍郎・同中書門下平章事を拝命、鄭愔と共に選事を掌った。賄賂を受け官品の秩序が乱れ、御史李尚隱に弾劾され江州司馬に貶されたが、上官氏と安楽公主が内々に取り計らい襄州刺史に改められた。まもなく尚書左丞に召還された。韋氏の摂政下、再び吏部侍郎同中書門下三品となる。睿宗の即位後、華州刺史として出向。まもなく太子詹事を拝命。
  • かつて湜は山南から丹水を引いて商州まで漕運できると建言し、商から石門の山を鑿って北の藍田まで抜ける水路を提案した。中宗はこれを湜に担当させ大昌関を開かせたが、役徒数万のうち十五分が死んだ。旧道の通行を禁じたが新道は夏の豪雨で何度も崩れ通じなかった。この時点で論功され銀青光禄大夫を加えられた。景雲年間、太平公主が湜を同中書門下三品に引き入れた。当時、挹は戸部尚書として致仕したが貪欲な性格で湜に多くの依頼を取り次いだ。湜はそのほとんどを受け入れなかったため父子は不仲となった。
  • 玄宗が東宮にあった頃、しばしばその邸を訪れて親交を結んでいた。湜は密かに公主に付き従い、時人はこれを危ぶみ寒気を覚えた。門下の客が『海鴎賦』を献じて諷したが、湜はこれを称賛しつつ改めなかった。帝が蕭至忠らを誅殺しようとし湜を召して腹心として示した際、弟の澄が「上が問われたことには、決して隠すな」と諫めたが湜は従わなかった。謁見した際、応対が意にそぐわなかった。至忠らが誅されると湜は嶺外に流された。当時、雍州長史李晉も連座して誅殺され「これはもともと湜の謀だったのに、今我が死んで湜が生きているのはなぜだ」と嘆いた。また宮人の元称がかつて湜と共に帝に近づく計を謀ったことも問題となった。追及されて荊州に至り死を賜った、享年四十三。
  • かつて襄州にいた際、譙王としばしば贈答があった。王が敗れると湜は死罪に問われるところを劉幽求・張説の助力で免れた。しかし湜が宰相となると幽求を嶺表に陥れ、密かに広州都督周利貞にこれを殺させようとしたが果たせなかった。さらに太平公主と共に張説を追い落とした。その猜疑深く陰険な性質は天性のもので、毒蛇にも劣らないと評された。
  • 弟の液・澄、従兄の涖と共に文才で要職を占めた。宴のたびに自ら東晋の王・謝の家に比した。かつて「我が一門は仕官してから官が第一等でなかったことがない、丈夫たる者は先んじて要路を占め人を制すべきだ、どうして黙々と人に制せられていられようか」と語った、それゆえ出世に執着し続けやがて破滅した。湜が政権を握っていた頃、年三十八にして夕暮れに端門を出て馬をゆるめ詩を詠んでいたところ、張説がこれを見て「文章と地位はいずれ得られるが、その若さは及ばない」と嘆じた。

孫 液

  • 液、字は潤甫、五言詩に特に巧みで、湜が感嘆し「海子、我が家の亀龍だ」と字で呼んだ。官は殿中侍御史に至る。湜の連座で流罪となるところを郢州に亡命し『幽征賦』を著してその意を表した、文辞は典麗であった。恩赦で帰り卒した。子の論は吏才があり、乾元年間州刺史となり治績で称された。大暦末、同州刺史に遷り黜陟使の庾何に糾弾されたが、議者は何を正しくないとし復して衢州刺史となった。徳宗は名門の年配者として大理卿に抜擢し卒した。

孫 澄

  • 澄は元の名を滌といったが玄宗が改めた。帝が藩邸にあった頃、同郷として親交があった。潞州に出た際、送別の賓客が国門で止まる中、澄だけは華州まで従った。即位後、寵愛は甚だしかった。湜が誅殺された後も帝はなお思いを寄せ、秘書監に任じた。開元二年(714年)、その父挹に吏部尚書を追贈しようとしたが宰相が反対し四品の礼で葬儀を行い和州刺史を追贈するにとどめた。澄は帝の側に侍り諸王とも席を譲らず、性格は滑稽で弁才に富み、帝は禁中の言葉が漏れることを恐れて「慎密」の二字を自ら笏の端に署させた。金紫光禄大夫に累進し安喜縣子に封ぜられた。卒して兗州刺史を贈られた。