秦王府の宿将
- 段志玄、齊州臨淄の人。潼関での桑顯和との戦い、竇建德討伐での奮戦などで知られ、隱太子の誘いを拒み忠節を貫いた。晩年、文德皇后の葬儀に際し夜間の勅使入城を拒んだ逸話で「真の将軍」と称賛された。褒国公・鎮軍大将軍。貞観十六年(642年)病没、輔國大将軍・揚州都督を追贈された。
志玄三世孫 文昌
- 三世孫の段文昌、字は墨卿。剣南節度使韋皋の幕下から翰林学士・中書侍郎同平章事に進み、剣南西川節度使同平章事として蜀の統治にあたり寛静な政治で異民族の信頼を得た(黔中蛮の反乱を使者一人で鎮めた逸話等)。淮南・荊南節度使を歴任し西川に再任、太和九年(835年)卒、太尉を追贈された。
文昌子 成式
- 子の段成式、字は柯古。博学で奇書秘籍に通じ、尚書郎・吉州刺史を経て太常少卿で終わった。『酉陽書』数十篇を著した。子の段安節は楽律に通じ国子司業となった。
【贊】
- 賛に曰く、屈突通は隋に節を尽くし、また唐の忠臣となった。それは一心を貫いたからこそ二君に仕えても嫌われなかったのである。尉遲敬德の帰順に際し太宗が赤心をもって遇したことで、猜疑を招くことなく大功が立った。君臣の出会いは千載一遇というべきである。張公謹が亀卜を投げ捨てて決断したのも、機会を逃さぬためであった。