新唐書卷八十一 列傳第六 三宗諸子
高宗八子(総論)
後宮劉氏は忠を、鄭氏は孝を、楊氏は上金を、蕭淑妃は素節を生み、武后は弘・賢・中宗・睿宗を生んだ。
燕王李忠
太宗が新たに孫を得た喜びを群臣と分かち合った逸話とともに生まれた。永徽初年、王皇后に子がなかったため、外戚柳奭の主導で皇太子に立てられた。武后の子李弘の誕生後、許敬宗の進言により梁王に降格、房州刺史に左遷。恐怖のあまり女装して刺客に備えるなどしたが、麟徳初年、上官儀事件に連座させられ賜死(二十二歳)。神龍年間、追封され太尉・揚州大都督を追贈された。
原悼王李孝
永徽元年、許王として立てられたが早世。
澤王李上金
母への武后の憎悪により冷遇され流罪を繰り返した。載初年間、武承嗣の讒言で謀反の疑いをかけられ、弟素節の死を聞いて自ら首をくくった(七子もみな流罪先で死んだ)。神龍年間に爵位を復された。
許王李素節
幼くして学才を発揮したが、母(蕭淑妃)が武后に殺されたことで冷遇され、「病」と称して朝見を拒み『忠孝論』を著して自己弁明した。武后の不興を買い度重なる降格・流罪を経て、龍門駅で縊殺された(四十三歳、庶人の礼で葬られる)。子九人のうち多くが誅殺されたが、中宗復位後に爵位を復された。
孝敬皇帝李弘
顕慶元年、皇太子に立てられた。『春秋左氏伝』で楚の商臣弑逆の記事に嫌悪を示し『礼記』の受講に転じたという逸話や、『瑤山玉彩』編纂の功、飢饉時の民への配慮、義陽・宣城二公主(母の罪で幽閉されていた)の降嫁を求めた進言などが伝わる。武后の専横に諫言を重ねるうち病を得て、上元二年、二十四歳で薨去。孝敬皇帝と追諡され、天子の礼で恭陵に葬られた。妃裴氏は哀皇后と諡された。
章懐太子李賢
容姿端正で幼くして聡明、『論語』の一節を諳んじる逸話が伝わる。皇太子李弘の薨去後に皇太子となり監国も務め、『後漢書』注釈事業も主導した。正諫大夫明崇儼の言(英王・相王の相が貴いとの噂)や出生を巡る風説により武后との関係が悪化し、調露年間、明崇儼暗殺事件に連座を疑われ東宮で武器が発見され、庶人に落とされ巴州へ流された。武后専権後、丘神勣の圧迫で自殺させられた(三十四歳)。神龍年間、追贈・改葬され、睿宗代に皇太子と追諡された。
子の李守禮は武后代、睿宗の子らとともに宮中に幽閉される苦難を経験したが、後に邠王として復権、天候を予知する逸話(幽閉中の杖傷の痛みで雨を知る)などで知られた。子の李承宏は吐蕃侵入時に一時傀儡皇帝に立てられたが、賊の撤退後に処刑された。
中宗四子(総論)
韋庶人(韋后)は重潤を、後宮は重福・重俊・殤帝を生んだ。
懿徳太子李重潤
中宗の東宮時代に生まれ高宗に喜ばれ、皇太孫に立てられた(史上稀な措置として議論を呼んだ)。中宗の廃位に伴い太孫府も廃されたが、中宗復位後に邵王となる。大足年間、張易之兄弟への風説を理由に武后に杖殺された(十九歳)。神龍年間、皇太子と追贈され、「陵」を名乗ることを許された。
譙王李重福
神龍年間、韋后の讒言で重潤事件に連座させられ左遷。睿宗代、洛陽男子張霊均・鄭愔の扇動で挙兵を図ったが失敗し、漕渠に身を投げて死んだ(三十一歳)。
節湣太子李重俊
神龍年間に皇太子となる。武三思・その子武崇訓(安楽公主の夫)に侮辱され続けたことに憤り、景龍元年、李多祚らと挙兵して武三思父子を殺害したが、宮城突入に失敗し終南山に逃れる途上で殺害された。睿宗代、追贈・改葬された。
睿宗六子(総論)
粛明皇后は憲を、宮人柳氏は捴を、昭成皇后は玄宗を、崔孺人は範を、王徳妃は業を、後宮は隆悌を生んだ。
譲皇帝李憲
初め皇太子であったが、楚王(後の玄宗)の大功を理由に自ら皇太子の地位を譲った(「儲副は天下の公器」との言葉で固辞)。以後、太子太師等の栄職を歴任、玄宗とは兄弟の情篤く「花萼相輝の楼」等で頻繁に交流した。開元二十九年薨去、玄宗は深く悲しみ「譲皇帝」と追諡、天子の礼服とともに葬った。
子の李璡(汝陽王)は謹厚で射に優れ賀知章らと交わった。李嗣荘・李琳も官職を歴任。李瑀(漢中王)は音楽に通じ、粛宗代には回紇の可汗冊立使を務めた。孫の李景儉は学才と激しい気性で知られ、宰相への暴言により左遷を繰り返したが、義に篤い人柄で惜しまれた。
恵荘太子李捴
武后に母の身分の低さを疎まれたが僧万回の口添えで助命された逸話を持つ。開元年間、司徒・益州大都督等を歴任、無嗣のため譲皇帝の子珣・璹が相次いで嗣いだ。
恵文太子李範
学問と書を好み、書画の収集家としても知られた(張易之・薛稷らの手を経た貴重な書画の顛末が伝わる)。玄宗の太平公主討伐に功を立て太常卿等を歴任、開元十四年薨去。子の瑾、のち薛王の子珍が相次いで嗣いだが、珍は謀反の疑いで賜死された。
恵宣太子李業
学問を好み秘書監等を歴任。母を早く失い賢妃に育てられた孝行や、玄宗との篤い兄弟愛(病気見舞い、疑いを晴らす逸話)が伝わる。開元二十二年薨去。子の李瑗・李瑒・李琄のうち、李琄の曾孫李知柔は京兆尹として鄭・白渠の水利を復興し、清廉な人柄で宗室の模範とされた。
隋王李隆悌
早世し、睿宗代に追王されたが嗣なし。
史論
論じていう。中宗は道を失い、母(武后)に廃され、妻(韋后)に弑され、四子もみな非業の死を遂げ、嗣も伝わらなかった。これは天がその不徳を憎んで血統を絶ったというべきであろう、中宗自ら天に見放されたのである。一方、睿宗は聖徳の子(玄宗)を持ち、一人は帝位を受け、一人(李弘)は帝を追贈され、三人(李弘・李賢・李重俊)は太子を追贈されるなど、天の応報は福として尽きることがなかった。まことに盛んなことである。