新唐書卷三十二 志第二十二 天文二

日食

  • 武德元年(618年)十月壬申朔、日食があり氐宿五度で起こった。占いには「諸侯が権を専らにすればその応はその宿にあたる国に現れ、諸侯が付き従えば王者の事となる」とある。
  • 武德四年(621年)八月丙戌朔、日食が翼宿四度で起こった(楚の分野)。
  • 武德六年(623年)十二月壬寅朔、日食が南斗十九度で起こった(呉の分野)。
  • 武德九年(626年)十月丙辰朔、日食が氐宿七度で起こった。
  • 貞観元年(627年)閏三月癸丑朔、日食が胃宿九度で起こった。九月庚戌朔、日食が亢宿五度で起こった(胃は天倉、亢は疏廟にあたる)。
  • 貞観二年(628年)三月戊申朔、日食が婁宿十一度で起こった(占いは大臣の憂い)。
  • 貞観三年(629年)八月己巳朔、日食が翼宿五度で起こった(占いは旱)。
  • 貞観四年(630年)正月丁卯朔、日食が営室四度で起こった。七月甲子朔、日食が張宿十四度で起こった(占いは礼を失う)。
  • 貞観六年(632年)正月乙卯朔、日食が虚宿九度で起こった(虚は耗祥)。
  • 貞観八年(634年)五月辛未朔、日食が参宿七度で起こった。
  • 貞観九年(635年)閏四月丙寅朔、日食が畢宿十三度で起こった(占いは辺兵)。
  • 貞観十一年(637年)三月丙戌朔、日食が婁宿二度で起こった(占いは大臣の憂い)。
  • 貞観十二年(638年)閏二月庚辰朔、日食が奎宿九度で起こった(奎は武庫)。
  • 貞観十三年(639年)八月辛未朔、日食が翼宿十四度で起こった(翼は遠夷)。
  • 貞観十七年(643年)六月己卯朔、日食が東井十六度で起こった(京師の分野)。
  • 貞観十八年(644年)十月辛丑朔、日食が房宿三度で起こった(房は将相の位)。
  • 貞観二十年(646年)閏三月癸巳朔、日食が胃宿九度で起こった(占いは主に疾あり)。
  • 貞観二十二年(648年)八月己酉朔、日食が翼宿五度で起こった(占いは旱)。
  • 顯慶五年(660年)六月庚午朔、日食が柳宿五度で起こった。
  • 龍朔元年(661年)五月甲子晦、日食が東井二十七度で起こった(いずれも京師の分野)。
  • 麟德二年(665年)閏三月癸酉、日食が胃宿九度で起こった(占いは主に疾あり)。
  • 乾封二年(667年)八月己丑朔、日食が翼宿六度で起こった。
  • 總章二年(669年)六月戊申朔、日食が東井二十九度で起こった。
  • 咸亨元年(670年)六月壬寅朔、日食が東井十八度で起こった。二年十一月甲午朔、日食が箕宿九度で起こった。三年十一月戊子朔、日食が尾宿十度で起こった(東井は京師の分野、箕は后妃の府、尾は後宮にあたる)。五年三月辛亥朔、日食が婁宿十三度で起こった(占いは大臣の憂い)。
  • 永隆元年(680年)十一月壬申朔、日食が尾宿十六度で起こった。
  • 開耀元年(681年)十月丙寅朔、日食が尾宿四度で起こった。
  • 永淳元年(682年)四月甲子朔、日食が畢宿五度で起こった。十月庚申朔、日食が房宿三度で起こった。
  • 垂拱二年(686年)二月辛未朔、日食が営室十五度で起こった。四年六月丁亥朔、日食が東井二十七度で起こった(京師の分野)。
  • 天授二年(691年)四月壬寅朔、日食が昴宿七度で起こった。
  • 如意元年(692年)四月丙申朔、日食が胃宿十一度で起こった(いずれも仲夏の正陽の月)。
  • 長壽二年(693年)九月丁亥朔、日食が角宿十度で起こった(角の内は天廷)。
  • 延載元年(694年)九月壬午朔、日食が軫宿十八度で起こった(軫は車騎)。
  • 證聖元年(695年)二月己酉朔、日食が営室五度で起こった。
  • 聖曆三年(700年)五月己酉朔、日食が畢宿十五度で起こった。
  • 長安二年(702年)九月乙丑朔、日食はほとんど皆既に近く角宿の初度で起こった。三年三月壬戌朔、日食が奎宿十度で起こった(占いは君主が安からず)。九月庚寅朔、日食が亢宿七度で起こった。
  • 神龍三年(707年)六月丁卯朔、日食が東井二十八度で起こった(京師の分野)。
  • 景龍元年(707年)十二月乙丑朔、日食が南斗二十一度で起こった(斗は丞相の位)。
  • 先天元年(712年)九月丁卯朔、日食が角宿十度で起こった。
  • 開元三年(715年)七月庚辰朔、日食が張宿四度で起こった。七年五月己丑朔、日食が畢宿十五度で起こった。九年九月乙巳朔、日食が軫宿十八度で起こった。十二年閏十二月丙辰朔、日食が虚宿初度で起こった。十七年十月戊午朔、日食は尽きず鈎の形となり氐宿九度で起こった。二十年二月甲戌朔、日食が営室十度で起こった。八月辛未朔、日食が翼宿七度で起こった。二十一年七月乙丑朔、日食が張宿十五度で起こった。二十二年十二月戊子朔、日食が南斗二十三度で起こった。二十三年閏十一月壬午朔、日食が南斗十一度で起こった。二十六年九月丙申朔、日食が亢宿九度で起こった。二十八年三月丁亥朔、日食が婁宿三度で起こった。
  • 天寶元年(742年)七月癸卯朔、日食が張宿五度で起こった。五載五月壬子朔、日食が畢宿十六度で起こった。十三載六月乙丑朔、日食はほとんど皆既に近く東井十九度で起こった(京師の分野)。
  • 至德元載(756年)十月辛巳朔、日食は皆既となり氐宿十度で起こった。
  • 上元二年(761年)七月癸未朔、日食は皆既となり大星がみな見え、張宿四度で起こった。
  • 大曆三年(768年)三月乙巳朔、日食が奎宿十一度で起こった。十年十月辛酉朔、日食が氐宿十一度で起こった(宋の分野)。十四年七月戊辰朔、日食が張宿四度で起こった。十二月丙寅晦、日食が危宿十二度で起こった。
  • 貞元三年(787年)八月辛巳朔、日食が軫宿八度で起こった。五年正月甲辰朔、日食が営室六度で起こった。八年十一月壬子朔、日食が尾宿六度で起こった(宋の分野)。十二年八月己未朔、日食が翼宿十八度で起こった(占いは旱)。十七年五月壬戌朔、日食が東井十度で起こった。
  • 元和三年(808年)七月辛巳朔、日食が七星三度で起こった。十年八月己亥朔、日食が翼宿十八度で起こった。十三年六月癸丑朔、日食が輿鬼一度で起こった(京師の分野)。
  • 長慶二年(822年、原文「四年」は誤り)辛酉朔、日食が胃宿十三度で起こった。三年九月壬子朔、日食が角宿十二度で起こった。
  • 大和八年(834年)二月壬午朔、日食が奎宿一度で起こった。
  • 開成元年(836年)正月辛丑朔、日食が虚宿三度で起こった。
  • 會昌三年(843年)二月庚申朔、日食が東壁一度で起こった(幷州の分野)。四年二月甲寅朔、日食が営室七度で起こった。五年七月丙午朔、日食が張宿七度で起こった。六年十二月戊辰朔、日食が南斗十四度で起こった。
  • 大中二年(848年)五月己未朔、日食が参宿九度で起こった。八年正月丙戌朔、日食が危宿二度で起こった(危は玄枵、これも耗祥)。
  • 咸通四年(863年)七月辛卯朔、日食が張宿十七度で起こった。
  • 乾符三年(876年)九月乙亥朔、日食が軫宿十四度で起こった。四年四月壬申朔、日食が畢宿三度で起こった。六年四月庚申朔、日食は皆既となり胃宿八度で起こった。
  • 文德元年(888年)三月戊戌朔、日食が胃宿一度で起こった。
  • 天祐元年(904年)十月辛卯朔、日食が心宿二度で起こった。三年四月癸未朔、日食が胃宿十二度で起こった。
  • 唐の紀年二百八十九年の間、日食は九十三回。うち朔(一日)に起きたもの九十、晦(月末)に起きたもの二、二日に起きたもの一である。

日変

  • 貞観の初め、突厥に五つの太陽が並んで照る現象があった。二十三年(649年)三月、太陽が赤くなり光を失った。李淳風は「日の変色は軍事の急を示す」といい、また「その君に徳なく、その臣が国を乱す」ともいう。濮陽復は「日に光がないのは主君の病を示す」といった。
  • 咸亨元年(670年)二月壬子、太陽が赤くなり光を失った。癸丑、四方が濛々とし、太陽に濁った気があり色は赭のようであった。
  • 上元二年(761年)三月丁未、太陽が赭色になった。
  • 永淳元年(682年)三月、太陽が赭色になった。
  • 文明元年(684年)二月辛巳、太陽が赭色になった。
  • 長安四年(704年)正月壬子、太陽が赭色になった。
  • 景龍三年(709年)二月庚申、太陽が紫赤色で光を失った。
  • 開元十四年(726年)十二月己未、太陽が赭色になった。二十九年三月丙午、風霾があり太陽が光を失って昼が薄暗くなった(占いは重刑が急がれ、人が生を楽しめない兆し)。
  • 天寶三載(744年)正月庚戌、日暈が五重になった(占いに「これを棄光といい、天下に兵が起こる」とある)。
  • 肅宗上元二年(761年)二月乙酉、白虹が太陽を貫いた。
  • 大曆二年(767年)七月丙寅、太陽の傍らに青赤の気があり長さ四丈余り。壬申、太陽の上に赤い気があり長さ二丈。九月乙亥から辛丑まで、太陽の傍らに青赤の気があった。三年正月丁巳、太陽に黄色の冠と青赤の珥があった。辛丑もまた同様であった(気が長く立つものを「直」、横たわるものを「格」といい、太陽の上に立つものを「冠」という。直は自立する者があること、格は戦闘を示す。また「赤気が太陽の上にあれば君に佞臣あり、黄は土功、青赤は憂いを示す」という)。
  • 貞元二年(786年)閏五月壬戌、太陽に黒暈があった。六年正月甲子、太陽が血のように赤かった。十年三月乙亥、黄霧が四方を塞ぎ太陽が光を失った。
  • 元和二年(807年)十月壬午、太陽の傍らに人形の黒い気があり跪いて手で盆を捧げ太陽に向かい、盆の中の気は人頭のようであった。四年閏三月、太陽の傍らに太陽のような物があった。五年四月辛未、白虹が太陽を貫いた。十年正月辛卯、太陽の外に烏のような物があった。十一年正月己卯、太陽が紫赤で光を失った。
  • 長慶元年(821年)六月己丑、白虹が太陽を貫いた。三年二月庚戌、白虹が太陽を貫いた。
  • 寶曆元年(825年)六月甲戌、赤虹が太陽を貫いた。九月甲申、太陽が赤く光を失った。二年三月甲午、太陽の中に盃のような黒い気があった。辛亥、太陽の中に黒点があった。四月甲寅、白虹が太陽を貫いた。
  • 大和二年(828年)二月癸亥、太陽が光を失い白霧で昼が薄暗くなった。十二月癸亥、黒い妖気が太陽と闘うようであった。五年二月辛丑、白虹が太陽を貫いた。六年三月、黒い妖気が太陽と闘うようであった。庚戌、太陽の中に黒点があった。四月乙丑、黒気が太陽を磨るようであった。七年正月庚戌、白虹が太陽を貫いた。八年七月甲戌、白虹が太陽を貫き日暈が交わった。十月壬寅、白虹が太陽を貫いて東西の空の果てまで届き、上に背玦があった。九年二月辛卯、日月が血のように赤かった。壬辰も同様であった。
  • 開成元年(836年)正月辛丑朔、白虹が太陽を貫いた。二月己丑もまた同様であった。二年十一月辛巳、太陽の中に鶏卵ほどの黒点があり、太陽は赭色で昼が薄暗くなり癸未まで続いた。五年正月己丑、日暈があり白虹が東にあって玉環のように珥を貫いた。二月丙辰、太陽に重なる暈があり赤い気が太陽を挟んだ。十二月癸卯朔、太陽の傍らに黒気が来て触れた。
  • 會昌元年(841年)十一月庚戌、太陽の中に黒点があった。四年正月戊申、太陽が光を失った。二月己巳、白虹が玉環のように太陽を貫いた。
  • 大中十三年(859年)四月甲午、太陽が暗く光を失った。
  • 咸通六年(865年)正月、白虹が太陽を貫き中に鶏卵のような黒気があった。七年十二月癸酉、白気が太陽を貫き日暈が重なった。甲戌も同様であった(白気は兵の象)。十四年二月癸卯、白虹が太陽を貫いた。
  • 乾符元年(874年)、太陽の中に黒点があった。二年、太陽の中に飛ぶ燕のようなものがあった。六年十一月丙辰朔、二つの太陽が並んで出て闘い、三日目にようやく見えなくなった(闘うとは離れてはまた合することをいう)。
  • 廣明元年(880年)、日暈が虹のようで黄気が太陽を蔽い光を失った(太陽は二つあるべきでなく、虹は百殃の本である)。
  • 中和三年(883年)三月丙午、太陽に青黄の暈があった。四月丙辰も同様であった。丁巳・戊午もまた同様であった。
  • 光啟三年(887年)十一月己亥、夕方に太陽の上に黒気があった。四年二月己丑、太陽が血のように赤かった。庚寅、文德と改元、この日風が吹き太陽が赤く光を失った。
  • 景福元年(892年)五月、太陽の色が黄金のように散った。
  • 光化三年(900年)冬、太陽に虹蜺が背璚となって旬余り続き、太陽に赤気があり東北から東南に至った。
  • 天復元年(901年)十月、太陽の色が黄金のように散った。十一月もまた同様であった。三年二月丁丑、太陽に赤気があり東北から東南に至った。
  • 天祐元年(904年)二月丙寅、太陽の中に北斗が見え、その占いは重大とされた。十一月癸酉、太陽の中に黄暈があり傍らに青赤の気が二つあった。二年正月甲申、太陽に黄白の暈があり暈の上に青赤の背があった。乙酉も同様で、暈の中に白虹が生じ次第に東へ長さ百余丈になった。二月乙巳、太陽に半環のような黄白の暈があり、蒼黒の雲が太陽を挟み長さ各六尺余り、やがて雲が変化し人や馬のような形になって消えた(旧占には「背は叛背の象、日暈に虹があれば大戦、半暈は互いに謀りごとがある。蒼黒は妖祥である。太陽を挟むのは賊臣が君を制する象、人に変わるものは叛臣、馬に変わるものは兵を示す」とある)。三年正月辛未、太陽に黄白の暈があり上に青赤の背があった。二月癸巳、太陽に半環のような黄白の暈があり青赤の背があった。庚戌もまた同様であった。

月変

  • 貞観の初め、突厥に三つの月が並んで見える現象があった。
  • 儀鳳二年(677年)正月甲子朔、月が西方に見えた。これを「朓」という(朓は侯王の緩みを示す)。
  • 武太后の時、望を過ぎても月が欠けないことが二度あった。
  • 天寶三載(744年)正月庚戌、月に垂れ帯のような紅気があった。
  • 肅宗元年(756年)建子月癸巳の乙夜、月が昴を掩って暈をなし色は白く、白気が北から貫いた(昴は胡の星。白気は兵喪を示す)。建辰月丙戌、月に黄白の冠があり暈が連なり東井・五諸侯・両河及び輿鬼を囲んだ(東井は京師の分野)。
  • 大曆十年(775年)九月戊申、月が熒惑・畢・昴・参を暈し東は五車に及び、暈の中に黒気があり合したり散じたりした。十二月丙子、月が東方に出て上に十余条の白気があり匹練のようで五車及び畢・觜觿・参・東井・輿鬼・柳・軒轅を貫き、夜半に散った(占いは「女主に凶」。白気は兵喪、五車は庫兵を主り、軒轅は後宮を、その宿は晋の分野及び京師にあたる)。
  • 元和十一年(816年)、己未の朝、日はすでに出ていたが虹が営室において月を貫いた。
  • 開成四年(839年)閏正月甲申朔、乙酉、月が営室にあり偃魄質成の位置にあり早すぎた(占いは臣下が専恣する象)。五年正月戊寅朔、甲申、月が昏に南中し弦にならぬうちに南中し早すぎた(占い同上)。
  • 景福二年(893年)十一月、環のような白気が月を貫き北斗を穿ち太微に連なった。
  • 天復二年(902年)十二月甲申、夜に月に三重の暈があり、内は白、中は赤黄、外は緑であった。
  • 天祐二年(905年)二月丙申、月が熒惑を暈した。

孛彗

  • 武德九年(626年)二月壬午、彗星が胃・昴の間に現れた。丁亥、卷舌に現れた(孛と彗はいずれも尋常でない悪気から生じ、その災いは彗より甚だしい)。
  • 貞観八年(634年)八月甲子、彗星が虚・危に現れ玄枵を経て乙亥に見えなくなった。十三年三月乙丑、彗星が畢・昴に現れた。十五年六月己酉、彗星が太微に現れ郎位を犯し、七月甲戌に見えなくなった。
  • 龍朔三年(663年)八月癸卯、彗星が左攝提に現れ長さ二尺余り、乙巳に見えなくなった(攝提は時節を建てる大臣の象)。
  • 乾封二年(667年)四月丙辰、彗星が東北の五車・畢・昴の間に現れ、乙亥に見えなくなった。
  • 上元二年(761年、原文では上元とあるが高宗朝上元二年か)十二月壬午、彗星が角・亢の南に現れ長さ五尺。三年七月丁亥、彗星が東井に現れ北河を指し長さ三尺余り、東北に進むにつれ光芒が盛んになり長さ三丈となり中台を掃って文昌を指した。九月乙酉、見えなくなった(東井は京師の分野、中台・文昌は将相の位、両河は天闕にあたる)。
  • 開耀元年(681年)九月丙申、彗星が天市の中に現れ長さ五丈、次第に小さくなりながら東行して河鼓に至り、癸丑に見えなくなった(市は財貨の集まるところで衣食を人民に施すところ。一説に帝が遷都する兆しともいう。河鼓は将軍の象)。
  • 永淳二年(683年)三月丙午、彗星が五車の北に現れ、四月辛未に見えなくなった。
  • 文明元年(684年)七月辛未の夕、彗星が西方に現れ長さ丈余り、八月甲辰に見えなくなった(これを「天攙」という)。
  • 光宅元年(684年)九月丁丑、半月のような星が西方に現れた(月は衆陰の長であり、月のような星は陰盛の極みを示す)。
  • 景龍元年(707年)十月壬午、彗星が西方に現れ、十一月甲寅に見えなくなった。二年七月丁酉、彗星が胃・昴の間に現れた(胡の分野)。三年八月壬辰、彗星が紫宮に現れた。
  • 延和元年(712年)六月、彗星が軒轅から太微に入り大角に至って消えた。
  • 開元十八年(730年)六月甲子、彗星が五車に現れた。癸酉、彗星が畢・昴に現れた。二十六年三月丙子、彗星が紫宮垣に現れ北斗魁を経て、旬余り曇天のため見えなくなった。
  • 乾元三年(760年)四月丁巳、彗星が東方の婁・胃の間に現れ色は白く長さ四尺、東方へ速く進んで昴・畢・觜觿・参・東井・輿鬼・柳・軒轅を経て右執法の西に至り、五旬余りで見えなくなった。閏月辛酉朔、彗星が西方に現れ長さ数丈、五月に至って消えた(婁は魯、胃・昴・畢は趙、觜觿・参は唐、東井・輿鬼は京師の分野、柳の半分は周の分野にあたる。二つの彗星が続けて現れたのは災禍が重なる兆し。また婁・胃の間は天倉にあたる)。
  • 大曆元年(766年)十二月己亥、彗星が匏瓜に現れ長さ尺余り、二旬を経て見えなくなり宦者星を犯した。五年四月己未、彗星が五車に現れ光芒が盛んで長さ三丈。五月己卯、彗星が北方に現れ色は白く、癸未に東行して八穀の中星に近づき、六月癸卯に三公に近づき己未に見えなくなった(占いは「白色は太白の生ずるところ」)。七年十二月丙寅、長星が参の下に現れその長さは天に亙った(長星は彗星の類。参は唐の星)。
  • 元和十年(815年)三月、長星が太微に現れ尾は軒轅に至った。十二年正月戊子、彗星が畢に現れた。
  • 長慶元年(821年)正月己未、彗星が翼に現れた。丁卯、太微西上将に現れた。六月、彗星が昴に現れ長さ一丈、十日で見えなくなった。
  • 大和二年(828年)七月甲辰、彗星が右攝提の南に現れ長さ二尺。三年十月、客星が水位に現れた。八年九月辛亥、彗星が太微に現れ長さ丈余り、西北に進んで郎位を越え、庚申に見えなくなった。
  • 開成二年(837年)二月丙午、彗星が危に現れ長さ七尺余り、西に南斗を指した。戊申、危の西南にあり芒耀がいよいよ盛んになった。癸丑、虚にあった。辛酉、長さ丈余りとなり西行してやや南を指した。壬戌、婺女にあり長さ二丈余り広さ三尺。癸亥、いよいよ長く広くなった。三月甲子、南斗にあった。乙丑、長さ五丈で末端が二岐に分かれ一つは氐を指し一つは房を掩った。丙寅、長さ六丈で岐がなくなり北を指し亢七度にあった。丁卯、西北行して東を指した。己巳、長さ八丈余りで張にあった。癸未、長さ三尺で軒轅の右にあり見えなくなった(およそ彗星は朝に出れば西を指し夕に出れば東を指すのが常だが、四方をあまねく指して犯すことこれほど甚だしいものはなかった)。甲申、客星が東井の下に現れた。戊子、客星が別に端門の内に現れ屏星に近づいた。四月丙午、東井下の客星が消えた。五月癸酉、端門内の客星が消えた。壬午、客星が彗のようになり南斗の天籥の傍らにあった。八月丁酉、彗星が虚・危に現れた(虚・危は玄枵、枵は耗の名である)。三年十月乙巳、彗星が軫魁に現れ長さ二丈余り、次第に長くなり西を指した。十一月乙卯、彗星が東方の尾・箕に現れ東西に天を亙り、十二月壬辰に見えなくなった。四年正月癸酉、彗星が羽林に現れた(衛の分野)。閏月丙午、彗星が卷舌の西北に現れ、二月己卯に見えなくなった。五年二月庚申、彗星が営室・東壁の間に現れ二十日で消えた。十一月戊寅、彗星が東方に現れた(燕の分野)。
  • 會昌元年(841年)七月、彗星が羽林・営室・東壁の間に現れた。十一月壬寅、彗星が北落師門に現れ営室にあり紫宮に入り、十二月辛卯に見えなくなった(幷州の分野)。
  • 大中六年(852年)三月、彗星が觜・参に現れた(参は唐の星)。十一年九月乙未、彗星が房に現れ長さ三尺。
  • 咸通五年(864年)五月己亥、夜漏が尽きる一刻前、彗星が東北に現れ色は黄白、長さ三尺、婁にあった(徐州の分野)。九年正月、彗星が婁・胃に現れた。十年八月、彗星が大陵に現れ東北を指した(占いは外夷の兵及び水災)。
  • 乾符四年(877年)五月、彗星があった。
  • 光啟元年(885年)、彗星が積水・積薪の間に現れた。二年五月丙戌、彗星が尾・箕に現れ北斗・攝提を経た(占いは「貴臣が誅される」)。
  • 大順二年(891年)四月庚辰、彗星が三台に現れ東行して太微に入り大角・天市を掃い長さ十丈余り、五月甲戌に見えなくなった。宦官の陳匡は星を知る者で「乱臣が宮に入るべし」と奏上した(三台は太一三階、太微大角は帝廷、天市は都市にあたる)。
  • 景福元年(892年)五月、蚩尤旗が現れた。初めは白い彗星が出て髪のような形で長さ二尺ほど、数日を経て中天から下り匹布のようになり、地に至って蛇のようになった。六月、孫儒が楊行密を宣州で攻め、山のような黒雲があり次第に下り儒の陣営の上に墜ち破れた屋のような形をした(占いは「営頭星である」)。十一月、彗星が斗・牛に現れた(占いは「越に自立する者がある」)。十二月丙子、天攙が西南に現れ、己卯に雲となって消えた。二年三月、天が長く曇り、四月乙酉の夜に及んで雲がやや開き、彗星が上台に現れ長さ十余丈、東行して太微に入り大角を掃い天市に入り、三十七日を経ていよいよ長くなり二十余丈に至ったが、曇天のため見えなくなった。
  • 乾寧元年(894年)正月、彗星が鶉首に現れた(秦の分野)。また星が西南に隕ち雷のような音がした。七月、妖星が現れたが彗でも孛でもなく名を知らず、当時の人は妖星、あるいは悪星と呼んだ。三年十月、客星が三つ現れ、一つは大きく二つは小さく、虚・危の間にあって離合を繰り返しながら共に東行し闘うような形をなし、三日を経て二つの小星が消え、大星も後に消えた(虚・危は斉の分野)。
  • 光化三年(900年)正月、客星が中垣の宦者星の傍らに現れ、桃のような大きさで光炎が宦者星を射て見えなくした。
  • 天復元年(901年)五月、三つの赤い星が南方にあり、それぞれ鋒芒を持ち、やがて西方・北方・東方にも同様のものが現れ、しばらくして各方向にもう一星ずつ増え合わせて十六星となった。しばらくして北から順に消えた(占いは「濛星であり、現れれば諸侯の兵が互いに攻める」)。二年正月、客星が桃のような大きさで紫宮の華蓋の下に現れ、次第に御女に進んだ。丁卯、流星が文昌から起こり客星に達したが客星は動かなかった。己巳、客星が杠にあってこれを守り、翌年になってもなお去らなかった(占いは「将相が出兵する」)。五月の夕、箕の下に炬火のような星があり炎々と衝き上がり、人々は初め火事かと思ったが、高さ丈余りに至って隕ちた(占いは「機星であり、下に乱がある」)。
  • 天祐元年(904年)四月、人の形をした星があり首は赤く身は黒く北斗の下の紫微の中にあった(占いは「天衝である。天衝は帝の前で泣きながら極を抱き、血の濁った霧が天下に冤罪を降らす」)。その三日後に黒風が吹いて空が暗くなった。二年四月庚子の夕、西北隅に太白のような星があり上に彗のような光があり長さ三、四丈で色は赭のようであった。辛丑の夕、色は縞のようになった(あるいは五車の水星、あるいは昭明星ともいう)。甲辰、彗星が北河に現れ文昌を貫き長さ三丈余りで中台・下台を陵いだ。五月乙丑の夜、軒轅の左角から天市西垣に及び光芒が猛烈に怒ったようで天に亙る長さとなった。丙寅、雲が曇り辛未にやや晴れたが見えなくなった(両河は天闕にあたり東井の間にある。北河は中国が経るところ。文昌は天の六司、天市は都市である)。

星変

  • 武德三年(620年)十月己未、星が東都の中に隕ち、隠々と音がした。
  • 貞観二年(628年)、天狗が夏州の城中に隕ちた。十四年八月、星が高昌の城中に隕ちた。十六年六月甲辰、西方に月のような大きさの流星があり西南に三丈進んで消えた(占いは「星が非常に大きいのは人主の象」)。十八年五月、流星が東壁から出て雷のような音がした(占いは「音が雷のようなのは怒りの象」)。十九年四月己酉、流星が北斗の柄を向いて消えた。
  • 永徽三年(652年)十月、流星が北極を貫いた。四年十月、睦州の女子陳碩真が反乱を起こし、婺州刺史の崔義玄がこれを討った際、星が賊の陣営に隕ちた。
  • 乾封元年(666年)正月癸酉、星が太微から出て東流し雷のような音がした。
  • 咸亨元年(670年)十一月、西方に雷のような音の流星があった。
  • 調露元年(679年)十一月戊寅、流星が北斗魁の中に入った。乙巳、流星が地を照らし光を放った(使星である)。
  • 神龍三年(707年)二月丙辰、流星が壁の崩れるような音を発し光が天地を照らした。
  • 景龍二年(708年)二月癸未、大星が西南に隕ち雷のような音がし、野雉がみな鳴いた。
  • 景雲元年(710年)八月己未、流星が五車から出て上台に至り消えた。九月甲申、流星が中台から出て相の位に至り消えた。
  • 太極元年(712年)正月辛卯、流星が太微から出て相の位に至り消えた。
  • 延和元年(712年)六月、幽州都督の孫佺が奚・契丹を討つ出陣の夜、大星が陣営に隕ちた。
  • 開元二年(714年)五月乙卯晦、星が西北に流れ、甕のようなもの・斗のようなものがあり北極を貫き、小さいものは数えきれず天の星がみな揺れ動き夜明けまで続いた(占いは「星は民の象、流れるのはその所を失うこと」。漢書に「星が揺れれば民が労苦する」とある)。十二年十月壬辰、流星が桃の大きさで色は赤黄、光が地を照らした(占いは「色が赤いのは将軍の使い」)。
  • 天寶三載(744年)閏二月辛亥、月のような星が東南に墜ち、墜ちた後に音がした。
  • 至德二載(757年)、賊将の武令珣が南陽を囲み、四月甲辰の夜中に赤黄色の大星があり長さ数十丈、光が地を照らし賊の陣営に墜ちた。十一月壬戌、斗の大きさの流星が東北に流れ長さ数丈、蛇のように屈曲し砕けた光が迸り出た(占いは「これを枉矢という」)。
  • 廣德二年(764年)六月丁卯、妖星が汾州に隕ちた。十二月丙寅、乙夜から夜明けまで星が雨のように流れた。
  • 大曆二年(767年)九月乙丑、昼に一斗器ほどの黄色い星があり尾は長さ六丈余り、南方に出て東北に消えた(東北は中国では幽州の分野)。三年九月乙亥、斗の大きさの星があり北流し光が地を照らした(占いは貴い使者を示す)。六年九月甲辰、一升器ほどの西流する星があり光が地を照らし尾を引き珠のような光が迸り長さ五丈、婺女から出て天市南垣に入り消えた。八年六月戊辰、一升器ほどの流星があり尾を引き長さ三丈余り、太微に入った。十二月壬申、一升器ほどの流星があり尾を引き長さ二丈余り、紫微から出て濁気に入った。十年三月戊戌、二升器ほどの流星が西方から出て尾を引き長さ二丈、濁気に入った。十二年二月辛亥、桃の大きさの流星があり尾の長さ十丈、匏瓜から出て太微に入った。
  • 建中四年(783年)八月庚申、星が京師に隕ちた。
  • 興元元年(784年)六月戊午、星が或いは十個或いは五個ずつ隕ちた。
  • 貞元三年(787年)閏五月戊寅、枉矢が虚・危に墜ちた。十四年閏五月辛亥、星が東北に墜ち光が昼のように照らし雷のような音がした。
  • 元和二年(807年)十二月己巳、西北に天を亙る流星があり尾が珠のように散った(占いは「貴い使者がある」)。四年八月丁丑、西北に大星があり東南に流れ雷鼓のような音がした。六年三月戊戌の日暮れ、空が曇り寒く、一斛器ほどの大きさの流星が兗・鄆の間に墜ち音が数百里に響き渡り野雉がみな鳴いた。墜ちた所の上に立ち上る蛇のような赤気があり長さ丈余り、夕方に消えた。時の占者は、日が戌にあるのは魯の分野で十年以内にその地の主は殺され地が分かれるだろうと考えた。九年正月、半席ほどの大星があり下から昇るにつれ光が地を照らし小星が群がってこれに従った。四月辛巳、大流星があり尾迹の長さ五丈余り、光が地を照らし右攝提の西に至って消えた。十二年九月己亥の甲夜、流星が中天から起こり首は甕のよう、尾は二百斛の船のようで長さ十余丈、音は群れる鴨が飛ぶようで火炬のように明るく月の下を過ぎて西流し、しばらくして礱礱という音がして地に墜ち、屋が壊れるような大きな音が三度し陳・蔡の間で起こった。十四年五月己亥、大流星が北斗魁から出て長さ二丈余り、南に軒轅に至って消えた(占いは「赦がある。赦は星の大小を見て判じる」)。十五年七月癸亥、大星が鉤陳から出て南流し婁に至って消えた。
  • 長慶元年(821年)正月丙辰、狼星の北から大星が出て色は赤く尾迹があり長さ三丈余り、光が地を照らし東北に流れ七星の南に至って消えた。四月、呉の地に大星が墜ち羽の飛ぶような音がした。七月乙巳、参の西北から大流星が出て色は黄、尾迹あり長さ六、七丈、光が地を照らし羽林に至って消えた。八月辛巳、東北方に雲中から大星が出て色は白く光が地を照らし前は鋭く後ろは大きく長さ二丈余り、西北に流れて雲中に消えた。二年四月辛亥、流星が天市から出て光が地を照らし隠々と音がし郎位に至って消えた(市は小人の集まるところ、郎は天廷の中にあって宿衛を主る)。六月丁酉、小星が房・心の間に隕ち、戊戌もまた同様であった。己亥もまた同様であった。閏十月丙申、斗の大きさの流星が中台上星に抵った。三年八月丁酉の夜、数斗器ほどの大流星があり西北から起こり奎・婁を経て東南に流れ、月に近く迸る光が散り落ち地に墜ちて音がした。四年四月、紫微の中に隕ちる星が多かった。七月乙卯、大流星が天船から出て斗魁の樞星を犯して消えた(占いは「舟楫の事がある」)。丙子、大流星が天将軍の東北から出て濁気に入った。
  • 寶曆元年(825年)正月乙卯、流星が北斗の樞星から出て光が地を照らし濁気に入った(占いは「赦がある」)。二年五月癸巳、西北に流星があり長さ三丈余り、光が地を照らし天市の中に入って消えた(占いは誅罰がある兆し)。七月丙戌、日の入りに東南に流星があり南に流れて消えた。晷度で推すと箕・斗の間であった。八月丙申、大流星が王良から出て長さ四丈余り、北斗の柄に至って消えた(王良は奉車御の官である)。
  • 大和四年(830年)六月辛未、夕暮れから戊夜まで流星が或いは大或いは小で数えきれなかった(占いは「民がその所を失い、王者が道を失えば綱紀が廃れてこうなる」。また「星は野にあれば物を象り、朝にあれば官を象る」ともいう)。七年六月戊子、夕暮れから夜明けまで四方に流星があり大小百余り縦横に飛んだ。八年六月辛巳、夜中に流星が河鼓から出て赤色、尾迹あり光が地を照らし珠のように散りながら北行して天棓に近づき消え雷のような音がした(河鼓は将軍、天棓は帝の武備を示す)。九年六月丁酉、夕暮れから丁夜まで流星二十余り、縦横に出没し多くは天の川に近かった。
  • 開成二年(837年)九月丁酉、斗ほどの大きさの星があり長さ五丈、室・壁から西北に流れ大角の下に入って消え、その形は枉矢に類し中天で音がし小星数百がこれに従った。十一月丁丑、興元府署の寝室の上に大星が隕ち光が庭宇を照らした。三年五月乙丑、柳・張から大星が出て尾の長さ五丈余り、二度出て二度消えた。四年二月己亥、丁夜から戊夜まで四方の中天に流星が大小合わせて二百余り現れみな西流し、尾迹の長さ二丈から五丈に及んだ。八月辛未、流星が羽林から出て尾迹の長さ八丈余り、雷のような音がした(羽林は天軍にあたる)。十二月壬申、蚩尤旗が現れた。
  • 會昌元年(841年)六月戊辰、夕暮れから戊夜まで小星数十が縦横に流散した(占いは「小星は民の象」)。七月庚午、北方に星があり光が地を照らし東北に流れ王良を経て雷のような音がした。十一月壬寅、大星が東北に流れ光が地を照らし雷のような音がした。四年八月丙午、炬火のような大星があり光が天地を照らし奎・婁から西方の七宿を掃いつつ隕ちた。六年二月辛丑、夜中に赤色で桃のような流星があり光が地を照らし尾迹あり紫微を貫いて濁気に入った。
  • 咸通六年(865年)七月乙酉、甲夜に数丈の大流星があり光の閃きは電のようで多くの小星が従い南から北へ向かった(その象は南方で衆に叛かれ北へ向かう者があることを示す)。九年十一月丁酉、匹練のような星が出て空に亙り雲となって消えた(楚の分野。これを「長庚」といい、現れれば兵が起こる)。十三年春、二つの星が天際から昇り、旌旗のような形で相従い中天に至って隕ちた。九月、蚩尤旗が現れた。
  • 乾符二年(875年)冬、二つの星があり一つは赤く一つは白く、斗ほどの大きさで相従って東南に流れ、光が地を月のように照らし次第に大きくなり光芒が猛烈になった。三年、昼に炬火のような星があり五升器ほどの大きさで東北から出てゆっくりと進み西北に隕ちた。四年七月、盂ほどの大きさの大流星があり虚・危から天市を経て羽林に入って消えた(占いは外兵の兆し)。
  • 中和元年(881年)、輿鬼に異星が現れた(占者はこれを悪星とした)。八月己丑の夜、星が雨のように隕ち或いは杯・椀のようで織るように交わり流れ、庚寅の夜も同様で丁酉まで続いた。三年十一月の夜、星が西北に雨のように隕ちた。
  • 光啟二年(886年)九月、揚州府署の延和閣の前に大星が隕ち雷のような音がし光炎が地を照らした。十月壬戌、星が西方に現れ色は白く長さ一丈五尺、屈曲しながら隕ちた(占いは「長庚である。下れば流血がある」)。三年五月、秦宗権が汴州の北郊に兵を擁していたところ、昼にその陣営に大星が隕ち雷のような音がした(これを「営頭」という。その下は軍が破れ将が殺される)。
  • 乾寧元年(894年)夏、星が越州に隕ち後に光があり長さ丈余り蛇のような形であった(あるいは枉矢ともいう)。三年六月、天が暴雨・雷電となり、椀ほどの大きさの星があり西南から起こり東北に墜ち色は白練のようで音は群れる鴨が飛ぶようであった(占いは姦謀を示す)。
  • 光化元年(898年)九月丙子、大星が北方に墜ちた。三年三月丙午、二十斛船ほどの大きさの星があり色は黄で前は鋭く後ろは大きく西南に進んだ。十一月、中天に東から緩やかに帯のように屈曲しながら流れる大星があり光が天に凝り固まって見え食事一回分ほどの時間で消えた(これを「枉矢」という)。
  • 天復三年(903年)二月、帝が鳳翔から帰還した翌日、月ほどの大きさの大星があり東の濁気の際から西流し雷のような音がし尾跡が中天を横に貫き三夜を経て消えた。
  • 天祐元年(904年)五月戊寅、乙夜に雨が降り曇って暗くなり、長さ二十丈の星があり東方から出て西南に向かい首は黒く尾は赤く中は白かった(枉矢であり、一に「長星」ともいう)。二年三月乙丑、夜中に五斗器ほどの大星が中天にあり西北に流れ地から十丈ほどで止まり、上に星芒があり火のように炎え赤黄色で長さ丈五尺ほど、蛇のように動き小星がみな動いて東南へ、その隕ちる様は雨のようで、しばらくして消え、後に竹叢のような蒼白い気が現れ天中に衝き上がり色は瞢瞢としていた(占いは「これもまた枉矢である」)。三年十二月の夕暮れ、東方に太白のような星があり地から徐々に昇りその動きは極めて緩やかで、中天に至ると上弦の月のようになり、やがて曲がって進み、しばらくして二つに分かれた(占いは「大孽がある」)。