新唐書卷十四 志第四 禮樂四

総説

  • 恒例でない祭祀で天子が時に応じて行うものには、封禅・巡狩・視学・耕籍・拝陵がある。

封禅の起源と隋の制

  • 文中子は「封禅は古のことではなく、秦・漢の奢侈な心から出たものであろう」と言った。世に稀にしか行われず礼にも典拠がないため、漢以来儒生・学官の論議は一致せず決着せず、結局その時々の君主が意のままに行うのみであった。隋の文帝はかつて牛弘・辛彦之らに儀注を定めさせ、泰山下に壇を作り南郊と同様の祭祀を行わせたにとどまり、山に登ることはなかった。

唐太宗の封禅の議

  • 唐の太宗は突厥を平定し年穀もしばしば豊作であったため、群臣は泰山封禅を請うた。太宗ははじめこれをあまり是としなかったが、中書侍郎杜正倫を遣わし泰山上の七十二君の壇の跡を視察させたところ、その年両河で大水があったため中止した。その後も封禅を言う群臣が多く、秘書少監顔師古・諫議大夫朱子奢らに当時の名儒・博士を集めて議させたが決着しなかった。そこで左僕射房玄齢・特進魏徴・中書令楊師道が衆議を広く採って奏上した。その議は「泰山下に壇を作り昊天上帝を祀る。壇の広さ十二丈、高さ一丈二尺。玉牒は長さ一尺三寸、広さ・厚さ五寸。玉検も同様で厚さは三寸減じる。印歯は璽のようにし金縄で五重に纏う。玉策四枚、いずれも長さ一尺三寸、広さ一寸五分、厚さ五分、各策に五簡ずつを金で連ねる。昊天上帝には太祖を、皇地祇には高祖を配する。祀り終えて廟に帰り格し、金匱に盛る。匱は高さ六寸、広さは足るだけとし表函の制で金縄を纏い金泥で封じ受命の璽を印す。玉牒は山上に蔵め、方石三枚を二重に重ね金縄で纏い石泥で封じ受命の璽を印す。山上の圓壇は五色の土を用い高さ九尺、広さ五丈、四面に一階を設ける。天子が南階より登り玉牒を封じる。封じ終えて土を加え封を築く、高さ一丈二尺、広さ二丈。社首での禅もまた同様とする。石検の封には受命璽を用いるが、玉検には別に璽を製する、方一寸二分、文は受命璽と同様。石距は経に無いため用いない。また告至壇を作る、方八十一尺、高さ三尺、四方に陛を出し、燔柴して告至し群神を望秩する」というものであった。これが礼に著されたが、降禅・朝覲のことは記されなかった。十五年、東方へ行幸しようとして洛陽まで至ったが彗星が現れ中止となった。

高宗の泰山封禅

  • 高宗の乾封元年、泰山を封じた。山南四里に圓壇を作り圓丘のように三壝とし、壇上を青色で飾り四方をそれぞれの色にし、封祀壇と号した。玉策三、玉を簡とし長さ一尺二寸、広さ一寸二分、厚さ三分、刻んで金文とした。玉匱一は長さ一尺三寸で上帝の冊を蔵め、金匱二で配帝の冊を蔵めた。金縄で五重に纏い金泥・玉璽を用い、璽は方一寸二分で文は受命璽と同様であった。石䃭は方石を二重に重ね、いずれも方五尺、厚さ一尺、方に刻んで玉匱を容れた。䃭の傍らには検を施し、深さ三寸三分・広さ一尺に刻み、縄に当たる所は深さ三分・広さ一寸五分とした。石検十枚で石䃭を検し、いずれも長さ三尺、広さ一尺、厚さ七分、印歯三道はいずれも深さ四寸、璽に当たる所は方五寸、縄に当たる所は広さ一寸五分とした。検は䃭の傍らに立て、南方・北方はいずれも三、東方・西方はいずれも二、䃭の隅から一尺離した。䃭は金縄で五重に纏い石泥で封じた。距石十二を䃭の隅に分け配し、いずれも二重に重ね、いずれも広さ二尺・長さ一丈、その首を斜めに刻み䃭の隅と相応させた。また山上に壇を作った、広さ五丈、高さ九尺、四方に陛を出し一壝とし、登封壇と号した。玉牒・玉検・石䃭・石距・玉匱・石検はいずれも同様であった。社首山上に降禅壇を作った、八角一成、八陛は方丘のようにし三壝とした。上を黄色で飾り四方をそれぞれの色にし、他はいずれも登封と同様であった。その議はほぼ定まったが、天子は「古今の制は文質が異なる。今、封禅は玉牒・金縄を用いるのに瓦尊・匏爵・秸席というのはそぐわない、文に改めるがよい」と詔した。そこで昊天上帝の褥は蒼、地祇の褥は黄、配座の褥はいずれも紫とし、尊爵もまた改められた。
  • この年正月、天子は山下の封祀壇で昊天上帝を祀り、高祖・太宗を配して圓丘の礼のように行った。親ら玉冊を封じ石䃭に置き五色の土を集めて封じた、直径一丈二尺・高さ一尺とした。この事が終わり山に登った。翌日、また登封壇で玉冊を封じた。さらに翌日、社首山の降禅壇で皇地祇を祀り方丘の礼のように行い、太穆皇后・文徳皇后を配し、皇后武氏を亜献、越国太妃燕氏を終献とし、六宮を率いて登り、その帷幕はいずれも錦繍であった。群臣は瞻望し、密かにこれを笑う者も多かった。さらに翌日、朝覲壇に御し群臣を朝じたのは元日の礼のようであった。そこで登封・降禅・朝覲の碑を立てることが詔され、封祀壇を舞鶴台、登封壇を万歳台、降禅壇を景雲台と名づけ瑞を紀した。その後嵩嶽を封じようとしたが吐蕃・突厥が辺境を侵したため中止した。永淳元年、また嵩山の南に奉天宮を作り行幸した。翌年十一月に封禅を行おうとし、諸儒国子司業李行偉・考功員外郎賈大隠らに儀を草させたが、まもなく病に遇い封禅は行われず、武后の代になってようやく登封が行われた。

玄宗の泰山封禅

  • 玄宗の開元十二年、四方が治まり歳もしばしば豊作であったため、群臣の多くが封禅を言い、中書令張説もまた固く請うたため、十三年に泰山で祭祀を行うことが制せられた。そこで張説は右散騎常侍徐堅・太常少卿韋縚・秘書少監康子元・国子博士侯行果とともに儀注を刊定した。山上に圓台を立てた、広さ五丈、高さ九尺、土色はそれぞれの方に依った。また圓台の上に方壇を起こした、広さ一丈二尺、高さ九尺、壇台の四面に一階を設けた。また圓台の東南に柴を積んで燎壇とした、地の宜しきを量り柴の高さ一丈二尺、方一丈、上を開き南に戸を六尺出した。また山下に圓壇を作った、三成十二階で圓丘の制のようにした。また壇の南に柴を積んで燎壇とした、山上と同様であった。また玉冊・玉匱・石䃭はいずれも高宗の制と同様にした。玄宗ははじめ、崇高な山で天に告げるのは精祭であり喧しくすべきでないとし、亜献以下はみな山下の壇で礼を行わせようとし、礼官を召して議論させた。学士賀知章らは「昊天上帝は君であり、五方の精帝は臣である。陛下が上で君を享り群臣が下で臣を祀るのは変礼の中と言える。しかし礼は三で成るものであり、亜献・終献を異にすべきでない」と言った。そこで三献はいずれも山に登り、五方帝及び諸神はいずれも山下の壇で祭ることとなった。玄宗が「前代はなぜ玉牒を秘したのか」と問うと、知章は「玉牒は意を天に通じるもので、前代はあるいは長寿を祈り神仙を希い、その旨は微密なため外には知られなかった」と答えた。帝は「朕は今、民のために福を祈るのであって秘するべき請いは何もない、玉牒を出して百寮に示そう」と言った。そこで山上の壇で昊天上帝を祀り高祖を配し、五帝以下の諸神を山下で祀り、その祀礼はいずれも圓丘のようにした。卜日・告天及び廟・社・大駕の経る所及び告至・問百年・朝覲は、いずれも巡狩の礼と同様であった。
  • 山に登るにあたり中道に大次を作り、三刻休止してから登った。すでに祭祀を終え燔燎した後、侍中が前に跪いて「具官臣某言す、玉冊を封ぜんことを請う」と称した。皇帝は南陛より登り北向きに立つ。太尉が昊天上帝の神座前に進み跪いて玉冊を取り桉に置いて進める。皇帝は玉冊を受け跪いて玉匱に納め、金縄で纏い金泥で封じる。侍中が受命の宝を取り跪いて進める。皇帝は宝を取り玉匱に印す。侍中は宝を受け符宝郎に授ける。太尉が進み、皇帝は跪いて玉匱を捧げ太尉に授け、太尉は退いて位に復する。太常卿が前に「再拝を請う」と奏し、皇帝が再拝して次に退き入る。太尉が玉匱の桉を石䃭の南に奉じ北向きに立つ。執事者が石蓋を開き、太尉が玉匱を奉じ跪いて石䃭の内に蔵める。執事者が石蓋を覆い、石検で検し金縄で䃭を纏い石泥で封じ、玉宝で遍く印し、引いて降り位に復する。執事者を率いて石距で封を固め、さらに五色の土で圜封する。配座の玉牒は金匱に封じ、いずれも玉匱の封と同様にする。太尉は金匱を奉じ従い降りて共に位に復する。金匱は太廟に納め高祖神堯皇帝の石室に蔵める。社首での禅もいずれも方丘の礼と同様である。

巡狩の礼

  • 天子が巡狩しようとする際、その方の州に「皇帝、某月に某に巡狩す、各々その守りを脩め職事を考えよ。敢へて敬み戒めざらんや、国に常刑あり」と告げる。出発に際し圓丘に告げる。前日、皇帝は郊祀のように齋し、昊天上帝に告げ、また太廟・社稷にも告げる。大駕鹵簿を具える。過ぎる州県では刺史・令が境で候え、通事舎人が制を承けて高齢者を問い、古の帝王・名臣・烈士を祭る。至れば刺史・令がまず奉見する。将作が嶽下に告至圓壇を築き、四方に陛を出し昊天上帝・配帝の位を設ける。
  • 天子が至れば執事はみな一日齋する。翌日、嶽・鎮・海・瀆・山・川・林・沢・丘・陵・墳・衍・原・隰を望祭し、所司が壇を作る。祭官の次を東壝門の外・道南に北向きに設け、饌幔を内壝東門の外・道北に南向きに設け、宮県・登歌を設け、瘞埳を作る。祭官・執事はみな一日齋する。嶽・鎮・海・瀆・山・川・林・沢・丘・陵・墳・衍・原・隰の尊は壇上南陛の東に北向きに置く。玉篚及び洗を設け、神座を壇上北方に設ける。献官が玉幣及び爵を嶽神に奠じ、祝史が鎮・海以下に助奠する。
  • 翌日、肆覲を行う。将作が行宮の南に壝を作る。壝の間を三分し二を南に、壇を北に作る、広さ九丈六尺、高さ九尺、四方に陛を出す。宮県を壇の南に設け、御座は壇上の北に、解剣席は南陛の西に置く。文武官の次は門外の東西に、刺史・令の次は文官の南に、蕃客の次は武官の南に、輦路を壇の南に列ねる。文官九品の位は壇の東南、武官は西南で相い向く。刺史・令の位は壇南の庭の三分の一、蕃客の位は西に置く。また門外の位を設け、牙旗を壝外に建て、黄麾大仗を門に屯め、鈒戟を壝中に陳ねる。吏部・主客・戸部が群官・客使を門外の位に就かせる。刺史・令はその土の産物を貢献する、錦・綺・繒・布・葛・越はいずれも五両を一束とし、錦は黄帊で包み、常貢の物はいずれも篚に入れ、その属は列の令の後に執る。文武九品がまず入って位に就く。皇帝が輿に乗って北壝門より入り、北陛より壇に登り座に即き南向く。刺史・蕃客はいずれも壝門より入り位に至り再拝し贄を奠じ興って贄を執る。侍中が刺史の東北に降り、いずれも拝する。宣が終わるとまた拝する。蕃客は舎人が制を称するのも同様である。戸部が貢物を導いて刺史の前に入れ、亀を首に、金を次に、丹・漆・糸・纊の四海九州の美物を重行に陳ねる。執る者が退き東西の文武の前に側立する。通事舎人が刺史一人を導き、剣を解き履を脱ぎ贄を執って前に登り北向きに跪いて「官封臣姓名等、敢へて壌奠を献ず」と奏し、贄を奠じる。舎人が跪いてこれを東へ挙げて所司に授け、刺史は剣・履をつけて位に復する。まず刺史が登って贄を奠じる間、庭にある者たちも次第に位前に奠じ、みな再拝する。戸部尚書が壇間で北向きに跪き貢物を所司に付すことを請い、侍中が制を承けて「可」と言う。所司は贄を受けて東門を出る。中書侍郎は州鎮の表を一桉に方して西門外に俟ち、給事中は瑞桉をもって東門外に俟ち、それから侍臣の位に就く。まず刺史が入ろうとする際、それぞれ桉を引いて東西の陛下に分け進める。刺史が登ろうとする際、中書令・黄門侍郎が降り立ち、登り終えると表を取って登る。尚書がすでに贄を受けることを請うと、中書令が前に跪いて読み、黄門侍郎・給事中が進み跪いて瑞を奏し、侍郎・給事中は桉を導いて退き、文武・刺史・国客はいずれも再拝する。北向きの位の者は出て門外の位に就く。皇帝は北陛より降りて入り、東西の位の者は出る。会を設けるのは正会・冬至のようにし、刺史・蕃客が門に入るのはいずれも上公のように奏楽する。
  • 会の翌日、制度を考える。太常卿が詩を採り陳べて風俗を観る。市に賈を納めさせ民の好悪を観る。典礼者が時を考え日を定め、律を同じくし、礼・楽・制度・衣服を正す。山川の神祇を挙げないのは不恭とされ、宗廟に慎まないのは不孝とされ、いずれも爵を黜ける。制度・衣服を革める者は叛とされ討伐される。百姓に功徳のある者には爵賞を与える。

視学の礼

  • 皇帝が学を視るとき、大次を学堂の後に設け、皇太子の次を大次の東に設ける。御座を堂上に、講榻を北向きに設ける。皇太子の座は御座の東南、西向きとする。文臣三品以上の座は太子の南に少し退いて置き、武臣三品以上は講榻の西南に、執読の座は前楹に北向きに置く。侍講の座は執読者の西北・武官の前に、論義の座は講榻の前に北向きに置く。如意を執る者は侍講の東に北向きに立つ。三館の学官の座は武官の後に置く。堂下の版位を設け、履を脱ぐ席は西階の下に置く。皇太子の位は東階の東南に、経を執る者は西階の西南に、文武三品以上はそれぞれ南に分けて位し、如意を執る者一人は経を執る者の後に、学生の位は文武の後に置く。
  • その日、皇帝は馬に乗り、祭酒が監官・学生を率いて道の左で迎える。皇帝が次に入ると経を執る者・侍講・如意を執る者と文武・学生はみな堂下の位に就く。皇太子は学堂の門外に西向きに立つ。侍中が「外辦」を奏する。皇帝は北階を登り座に即く。皇太子はそこで入って位に就き、在位の者はみな再拝する。侍中が皇太子・王公に登るよう勅し、みな再拝してから座に就く。執読・執経が義を解く。如意を執る者はこれを侍講に授け、秉じて論義の座に詣で疑うところを問う。退いて如意を執る者に授け座に戻り、それからみな降りる。もし会を賜うならば侍中が制を宣し、皇帝は次に返る。群官の会が終わり皇帝が戻ると、監官・学生は道の左で辞す。

耕藉の礼

  • 皇帝は孟春吉亥に先農を享り、あわせて耕籍を行う。享の一日前、奉礼が御座を壇の東に西向きに設け、望瘞位を壇の西南に北向きに設け、従官の位を内壝東門の内・道南に、執事者をその後に置く。奉礼の位は楽県の東北に、贊者はその南に置く。また御耕藉位を外壝南門の外十歩の所に南向きに設け、従耕の三公・諸王・尚書・卿の位は御座の東南に重行西向きに、その推数を列とする。三公・諸王・尚書・卿等で耕さない者の位は耕す者の東に重行西向北上で置く。介公・酅公は御位の西南に東向北上で置く。尚舎が御耒の席を三公の北少し西に南向きに設ける。奉礼はまた司農卿の位を南に少し退いて設け、耒耜を執る諸者の位は公卿の耕す者の後・耕さない者の前、西向きに置く。御耒耜一具、三公は耒耜三具、諸王・尚書・卿は各三人あわせて耒耜九具を用いる。以下の耒耜は太常がそれぞれ藉田の農人に執らせる。
  • 皇帝がすでに享り終えると、耕根車に耒耜を載せて御者の間に置き、皇帝は車に乗って行宮より大次を降りる。乗黄令が耒耜を廩犧令に授け、横に執らせ左耜を席に置いてこれを守る。皇帝が望瘞を行おうとする間、謁者が三公及び従耕の侍耕者・司農卿と耒耜を執る者をみな位に就かせる。皇帝は出て耕位に就き南向きに立つ。廩犧令が耒の席の南に進み北向きに韜を解いて耒を出し、執って興り少し退いて北向きに立つ。司農卿が進んで受け侍中に授け、奉じて進める。皇帝はこれを受け三推する。侍中が前に耒耜を受け司農卿に反し、卿はこれを廩犧令に反し、令は耒を韜に復し執って興り位に復する。皇帝が耕し始めると、耒を執る者はみな耒耜を侍耕者に授ける。皇帝の耕が止むと、三公・諸王は五推、尚書・卿は九推する。耒を執る者が前に受け取る。皇帝は戻り南門より入り内壝東門より出て大次に入る。享官・従享者は出て、太常卿がその属を率いて千畝を耕す。
  • 皇帝が宮に還った翌日、太極殿で酒を班勞する、元会のようにするが賀はせず寿を為さない。藉田の穀は収めて神倉に鍾め、粢盛及び五斉・三酒に擬え、穣槀で牲を食わせる。

藉田・先農をめぐる議論の変遷

  • 藉田で先農を祭るのは、唐初は帝社とし藉田壇とも称した。貞観三年、太宗が親耕しようとした際、給事中孔穎達が「礼では天子は南郊で藉田し、諸侯は東郊で行う。晋の武帝も東南で行っていた。今の帝社は東の壇であり古に合わない」と議じた。太宗は「書に『平秩東作』とあり、青輅・黛耜は春の気に順うものだ。私の方位は少陽であるので田は東郊に宜しい」と言い、東郊で耕した。
  • 垂拱中、武后は藉田壇を先農壇と称した。神龍元年、礼部尚書祝欽明が「周頌の載芟に『春に藉田して社稷に祈る』とあり、礼に『天子は千畝を藉田とし、諸侯は百畝とする』とあるので、田に縁って社を作り王社・侯社と称する。今、先農と称するのは王社の義を失うので帝社と正名すべきだ」と議じた。太常少卿韋叔夏・博士張斉賢らは「祭法に、王者は太社を立て、その後に王社を立てるとあるが、その置く地には伝がない。漢の興隆以後すでに官社があったが官稷はまだ立てられず、官社の後に立てられ、夏禹を官社に、后稷を官稷に配した。臣瓚は『高紀に漢の社稷を立てたとあるのが太社である。官社に禹を配したのが王社である。光武に至って官稷は立てられず、以後受け継がれて今に至る』と言う。魏は官社を帝社とした、それで摯虞は魏氏故事に太社を立てたと言った。晋は廃したり置いたりし場所は一定しなかった。あるいは二社が並んで置かれ王社が西に居るともいう。崔氏・皇甫氏はいずれも王社は藉田にあると言う。衞宏の漢儀を按ずるに『春の始めに東の藉田で耕す、詩に先農を引くのはすなわち神農である』とある。また五経要義には『田に壇を作り先農を社のように祀る』とある。魏の秦静は風伯・雨師・霊星・先農・社・稷を国の六神とする議をなした。晋の太始四年、東郊で耕し太牢で先農を祀った。周・隋の旧儀及び国朝の先農はいずれも帝社で神農を祭り后稷を配する。すなわち王社と先農は一つにできない。今、藉田に帝社・帝稷を立て禹・棄を配するのが宜しく、そうすれば先農・帝社を並べ祀り周の載芟の義に叶う」と議じた。欽明はさらに「藉田の祭は本来王社である。古の先農祭祀は句龍・后稷であった。烈山の子もまた農と称され、周の棄がこれを継ぎ、いずれも稷として祀られた。共工の子は后土といい、湯が夏に勝った際に遷そうとしてできなかった。ゆえにこの二神が社稷の主である。黄帝以降、羲・農を常祀に列することはなかった、どうして社稷であるのに神農を祭ろうか。社稷の祭りは神農の耒耜の大功を取らず専ら共工・烈山を取る、これは三皇洪荒の跡が教えとして取るところがないためであろう。あの秦静とは何者であって社稷・先農を二つとし藉田に二壇があると知りえたのか。先農・王社は一つであり、いずれも后稷・句龍の異名を分けて祭ったに過ぎず、牲は四牢を用いる」と議じた。欽明はさらに「漢が禹を祀ったのは誤りである。今、王社・先農の号を正そうとしながら決しないまま、さらに二祀を加えるのは不可である」と言った。叔夏・斉賢らは「経に先農はなく、礼に『王が自ら立てる社を王社という』とある。先儒はこれを藉田にあるとする。永徽中もなお藉田と称していたが、垂拱以後、先農となった。すなわち先農と社は一神であり、今の先農壇は帝社壇と改め古の王社の義に合わせるべきである。その祭りは令に準じて孟春吉亥に后土を祠り句龍氏を配する」と奏し、そこで帝社壇が作られ、また帝稷壇を西に立て太社・太稷のようにしたが、壇には方色を設けず太社と区別した。
  • 開元十九年、帝稷を停め壇上で神農氏を祀り后稷を配することとなった。二十三年、東郊で神農に親祀し句芒を配し、自ら耕して畝を尽くしてやめた。
  • 肅宗の乾元二年、耒耜の彫刻を去ることが詔され、有司に改造を命じた。天子は通化門を出て軷を釈いて壇に入り、神農氏を祭り后稷を配した。冕に朱紘をつけ、自ら九推した。
  • 憲宗の元和五年、来年正月に藉田を行うことが詔された。太常修撰韋公粛は「藉田の礼は久しく廃れ、有司に考える術がない」と言った。そこで礼経に拠り開元・乾元の故事を参考にし、藉田に先農壇を作った。皇帝の夾侍二人、正衣二人、侍中一人が耒耜を奉じ、中書令一人・礼部尚書一人が侍従し、司農卿一人が耒耜を侍中に授け、太僕卿一人が牛を執り、左右衛将軍各一人が侍衛する。三公は宰相が摂し、九卿は左右僕射・尚書・御史大夫が摂し、三諸侯は正員一品官及び嗣王が摂する。推数はもっぱら古制を用いる。礼儀使一人・太常卿一人が礼を賛け、三公・九卿・諸侯の牛を執る者三十人は六品以下の官を用いいずれも袴褶を服する。御耒耜は二具、韜もあわせて青とする。その制度は農用に合わせ彫飾せず、終われば収める。藉耒耜の丈席は二。先農壇は高さ五尺、広さ五丈、四方に陛を出し色は青。三公・九卿・諸侯の耒は十五。御耒の牛は四頭、うち二頭は副えである。牛衣もあわせる。牛ごとに一人ずつ配し、絳衣・介幘を服し農務に通じた者を用い、礼司が人をもって賛導する。耒耜を執るのは高品の中官二人とし袴褶は服さない。皇帝が望耕位に詣で、通事舎人が文武を分けて耕所に導く。太常がその属を率い庶人二十八人を用い郊社令一人が押す。太常少卿一人が庶人を率いて耕所に趨る。博士六人が分けて耕礼を賛ける。司農少卿一人が庶人の千畝を耕し終えるまで督視する。廩犧令二人、うち一人が耒耜を司農卿に奉じ授ける、五品・六品の清官が摂す。もう一人は耒耜を掌り太常寺は本官を用いる。三公・九卿・諸侯の耕牛は四十頭、うち十頭は副えで、牛ごとに一人ずつ配す。庶人の耕牛は四十頭、各々二牛に一人配す。庶人の耒耜二十具、鍤二具は木を刃とする。藉田を主る県令一人は朝服を具え耕の時に田の側に立ち終われば退く。畿甸の諸県令は期前に集まり常服で耕所に陪する。耆艾二十人が庶人の耕位の南に陪する。三公の従者各三人、九卿・諸侯の従者各一人が耕を助ける。いずれも絳服・介幘を服し本司の隷を用いる。この時、儀はこのように草案されたが水旱・用兵により行われなかった。

拝陵の礼

  • 皇帝が陵に謁する際、行宮は陵より十里離れ、坐を齋室に設け、小次を陵所の道の西南に設ける。大次は寝の西南に、侍臣の次は大次の西南に、陪位者の次はさらに西南に置き、いずれも東向きとする。文官は北に、武官は南に、朝集使はさらにその南に、いずれも地の宜しきに相う。
  • 行の二日前、太尉を遣わし廟に告げる。皇帝が行宮に至れば齋室に入る。陵令が玉冊を進めて署させる。御位を陵の東南隅に西向きに設けるが、岡麓の閡があれば地の宜しきに随う。また位を寝宮の殿の東陛の東南に西向きに設ける。尊坫は堂戸の東南に陳ねる。百官・行従・宗室・客使の位は神道の左右に、寝宮ではそれぞれ方に分けて大次の前に序立する。
  • その日、未明五刻に黄麾大仗を陵寝に陳ねる。三刻、行事官及び宗室親五等・諸親三等以上及び客使で陪すべき者が位に就く。皇帝は素服で馬に乗り、華蓋・繖・扇、侍臣が騎従して小次に詣でる。歩いて次を出て位に至り再拝し、また再拝する。在位の者はみな再拝し、また再拝する。少し経って太常卿が辞を請い、皇帝が再拝し、また再拝する。奉礼が「奉辞」と言い、在位の者が再拝する。皇帝は小次に還り馬に乗って大次に詣で、仗衛が列立して行を俟つ。百官・宗室・諸親・客使が次の前に序立する。皇帝が歩いて寝宮の南門に至ると仗衛は止まる。そこで入り東序より殿陛の東南の位に進み再拝し、東階より登り北向きに再拝し、また再拝する。入って服玩を省み帳簀を拭い太牢の饌を進め珍羞を加える。皇帝は尊の所に出て酒を酌み、入って三たび爵を奠じ北向きに立つ。太祝二人が玉冊を持ち戸外で東向きに跪いて読む。皇帝が再拝し、また再拝し、戸を出て前に当たり北向きに立つ。太常卿が辞を請い、皇帝が再拝し東門を出て大次に還り行宮に宿す。
  • 太子・諸王・公主で柏城に陪葬される者は、みな寝殿の東廡で祭り、功臣の陪葬者は東序で祭る。位を作り饌を奠じ、有司が行事する。
  • もし皇后が従い謁する場合、大次を寝宮の東に設け、先朝の妃嬪の次を大次の南に、大長公主・諸親命婦の次はさらにその南に、いずれも東向きに設ける。帷を行って謁所に障を具え、内謁者が皇后の位を寝宮の東・大次の前少し東に設ける。先朝の妃嬪の位は西南、それぞれ次の東に、司賛の位は妃嬪の東北、いずれも東向きとする。皇帝がすでに行宮を発つと、皇后は四望車に乗って大次に至り、仮髻・白練単衣に着替える。内典引が妃嬪以下を導いて位に就かせる。皇后が再拝し陪する者もみな拝する。少し経ってから辞し、また拝し、陪する者もみな拝する。皇后は寝の東の大次に還り、陪する者は退く。皇后は鈿釵礼衣を服し輿に乗って寝宮に詣で、先朝の妃嬪・大長公主以下が従う。北門に至り輿を降り大次に入り、寝殿前・西階の西に詣でる。妃嬪・公主の位は西に、司賛の位は妃嬪の東北、いずれも東向きとする。皇后が再拝し、在位の者もみな拝する。皇后は西階より室に入り、先帝の前で再拝し、また先后の前で再拝し、進んで先后の服玩を省み退いて西廂で東向きに立ち食を進める。皇帝が出ると西階の位を降りる。辞して再拝し、妃嬪もみな拝する。大次に詣で衣を更え、皇帝が過ぎてから寝宮の北門を出て車に乗って還る。
  • 天子が自ら謁しない場合は、太常卿が陵を代行する。所司が日を撰び、車府令が軺車一・馬一・清道を具え、青衣・団扇・曲蓋繖を陵南百歩の道東に列んで俟つ。太常寺の門に次を設け西向きとする。右校令が薙器を具え掃除に備える。太常卿は公服で車に乗り、奉礼郎以下が従う。次に至れば卿の位を兆門外の左に、陵官の位を卿の東南に、執事はさらにその南に、いずれも西向きに設ける。奉礼郎の位は陵官の西、贊引二人は南に置く。太常卿以下が再拝し、在位の者もみな拝する。謁者が卿を導き贊引が衆官を導いて入り、奉行が終われば位に復しみな拝する。出て他の陵へ車で向かう。芟治すべきことがあれば命ずる。
  • すべて国陵の制は、皇祖以上から太祖陵までいずれも朔・望に上食し、元日・冬至・寒食・伏・臘・社にそれぞれ一祭する。皇考陵は朔・望及び節ごとに祭り、さらに日ごとに食を進める。また諸陵に新物を薦め、その品数は五十六種。まず御に進めようとするとき、所司は必ず先に太常と尚食に送り、味を調えてこれを薦める、宗廟のようにする。

諸陵の祭祀制度の変遷

  • 貞観十三年、太宗が献陵に謁した際、小次に至り輿を降り履を納め、闕門に入り西向きに再拝し、慟哭して俯伏し立ち上がれないほどであった。礼が終わり衣を改めて寝宮に入り饌を執って薦めた。高祖及び太穆后の服御を閲し、左右の者を悲感させた。歩いて司馬北門を出て泥中を二百歩行った。
  • 永徽二年、有司は「先帝の時、献陵はすでに三年を経ており、朔・望・冬至・夏伏・臘・清明・社に上食するのみであった。今、昭陵の喪期が終わったので献陵のように上食されたい」と言い、これに従った。六年正月朔、高宗が昭陵に謁し、哭きながら位に就き再拝擗踊し終え、服を替えて寝宮に謁した。寝に入り哭踴し東階に進み西向きに拝号し、久しくしてから太牢の饌を薦め珍羞を加え、拝哭して饌を奠じた。服御を閲した後に辞し、哭きながら寝の北門を出て小輦に乗って還った。
  • 顕慶五年、歳ごとに春秋一巡し、三公を陵行とし太常少卿がこれを副え太常が鹵簿を給うことが詔され、令に著された。はじめ、貞観礼では歳ごとに春秋仲月に陵を巡っていたが、武后の時に至り四季月・生日・忌日に使を遣わして陵に起居させるようになった。景龍二年、右台侍御史唐紹が上書して「礼に墓を祭ることはなく、唐家の制では春秋仲月に使が鹵簿・衣冠を具えて陵を巡る。天授の後、起居のことが起こり故事となった。起居とは動止を参候するもので生を事える道であって陵寝の法ではない。四季及び生日・忌日・節日の起居を停め、式に準じて二時の巡陵とされたい」と言った。手勅には「乾陵は冬至・寒食に外使、二忌には内使が朝奉せよ。他の陵は紹の奏の通りとせよ」とあった。この時、さらに献・昭・乾陵はいずれも日ごとに祭られていた。太常博士彭景直が上疏し「礼に陵で日祭を行うことはなく、宗廟だけが月ごとに祭りがある。ゆえに王は廟・祧・壇・墠を親疎多少の数に応じ設け、七廟・一壇・一墠を立てる。考廟・王考廟・皇考廟・顕考廟といい、いずれも月ごとに祭る。遠廟は祧となり享嘗にとどめる。祧を去れば壇となり、壇を去れば墠となり、祈るべきことがあれば祭り、なければやめる。また譙周の祭志には『天子の始祖・高祖・曾祖・祖・考の廟はいずれも月朔に薦を加え、平生の朔食に象るもので月祭という。二祧の廟には月祭がない』とある。すなわち古はいずれも日祭がなかった。今、諸陵の朔・望の食は古の殷事に近く、諸節日の食は古の薦新に近い。鄭氏の礼記注に『殷事とは月朔・月半の薦新の奠である』とあり、また『すでに大祥を経れば四時のみとする』とある。これらの祭りはいずれも廟で行われ、近代になって初めて朔・望・諸節に陵寝を祭るようになった、四時及び臘の五享のみ廟で行う。経を考え礼に拠れば陵で日祭を行うことは元来ない。ただ漢の七廟の議では、京師に高祖から宣帝まで、太上皇・悼皇考とともに陵の傍らに廟を立て、園にはそれぞれ寝・便殿があったため、寝で日祭し便殿で月祭した。元帝の時、貢禹は礼が煩雑に過ぎるとして郡国廟を罷めることを願った。丞相韋玄成らもまた七廟以外の寝園はいずれも復すべきでないと議じた。議者もまた祭りは頻繁にすべきでないとして古の四時祭を廟で復すべきとした。後に劉歆は春秋伝の『日祭、月祀、時享、歳貢。祖禰は日祭、曾高は月祀、二祧は時享、壇・墠は歳貢』を引いた。後漢の陵寝の祭りには伝がなく、魏・晋以降はいずれも墓を祭らない。国家の諸陵の日祭は礼のように停止されたい」と言った。上疏が奏せられると天子は侍臣に「礼官は諸陵で日ごとに食を進めるべきでないと言う。しかし礼は人情によって沿革するもので、なぜ古にのみ専らであろうか。乾陵は朝・晡の進奠を故のようにせよ。昭・献の二陵は日に一度の進めとし、所司が費用に苦しむならば朕の常膳を減じてこれに充ててよい」と語った。
  • 開元十五年の勅に「宣皇帝・光皇帝の陵は県令が検校し、州長官が歳ごとに一巡せよ」とあった。また勅に「歳ごとに春秋に陵を巡り、公卿は仗を具えて城を出て陵の十里手前で戻れ」とあった。
  • 十七年、玄宗が橋陵に謁し、壖垣の西闕まで至って馬を降り、陵を望んで涕泗し、神午門まで進んで号慟して再拝した。あわせて三府の兵馬を供衛とし、さらに定陵・献陵・昭陵・乾陵に謁してから還った。
  • 二十三年、献・昭・乾・定・橋の五陵で朔・望に上食し、歳ごとに冬至・寒食にそれぞれ一日一祭を設けることが詔された。もし節が朔・望・忌日と重なれば節祭の料に準ずる。橋陵は日に半羊の食を進める。二十七年、公卿の巡陵に輅車を用いることが勅され、太僕寺に命じて陵ごとに輅二乗及び仗を給わせた。翌年、「宣皇帝・光皇帝・景皇帝・元皇帝の追尊の号謚には制があるが、陵寝で奉る所が称っていない。建初・啓運陵は興寧・永康陵のように署官・陵戸を置き、春秋仲月に公卿を分けて巡謁させよ。二十年、建初・啓運・興寧・永康陵は歳ごとの四時・八節に所司が陵署とともに食を具え進めよ」と制した。天宝二年、初めて九月朔に諸陵に衣を薦めることとなった。またしばしば寒食に餳粥・鶏毬・雷車を、五月に衣・扇を薦めた。
  • 陵司は旧に署と称したが、十三載、献・昭・乾・定・橋の五陵署を台と改め、令を台令とし旧より一階昇せた。以後諸陵署はいずれも台と称した。
  • 大暦十四年、礼儀使顔真卿が「今、元陵は朔・望・節の祭、日々の薦を故事のように請う。泰陵はただ朔・望・歳の冬至・寒食・伏・臘・社に一祭し、日ごとの食は罷めるべき」と奏し、「可」と制せられた。貞元四年、国子祭酒包佶が「歳ごとの二月・八月、公卿が諸陵に朝拝する際、陵台の所由が陵下まで導くだけで礼は略され恭を尽くすことがない」と言った。そこで太常が旧礼を約めて「所司がまず吉日を撰び、公卿は輅車・鹵簿で太常寺より発ち、陵の南道の東に至って次を設け西向北上とする。公卿が次に至れば奉礼郎が位を北門外の左に、陵官の位をその東南に、執事官はさらにその南に設ける。謁者が公卿を、典引が衆官を導いて位に就かせ、みな拝する。公卿・衆官が次第に奉行し拝して還る」と草定した。
  • 故事では、朝陵の公卿が発つ日も天子は視事を廃さなかった。十六年、拝陵の官が発つ日、董晋の卒に当たり朝を廃した。以後、公卿が発つ日はこれに因って視事しないこととなった。
  • 元和元年、礼儀使杜黄裳が故事のように豊陵は日祭とし、崇陵はただ朔・望・節日・伏・臘に祭ることを請うた。二年、宰臣が「礼には定まった規定があるのに、後世は一時の慕を徇い過度に煩雑となった。あわせて故陵廟には薦新があり節には遣使があるが、太廟は歳ごと時享とし朔・望に上食し、諸陵は朔・望に奠じ、親陵は朝・晡に奠じ、その他の享及び忌日の告陵はいずれも停めるべき」と建言した。