新唐書卷四 本紀第四 則天皇后・中宗

則天皇后――出自と生い立ち

  • 則天順聖皇后武氏、諱は曌、幷州文水の人。父の武士彠は工部尚書・荊州都督に至り、応国公に封じられた。
  • 后は十四歳のとき太宗にその容色を聞かれ才人に選ばれた。太宗の崩御後、后は髪を剃り比丘尼として感業寺に住んだが、感業寺に幸した高宗に見初められ再び宮に召された。やがて昭儀に立てられ宸妃の号を進めた。永徽六年、高宗は皇后王氏を廃し宸妃を皇后に立てた。
  • 高宗は顕慶以後、しばしば風疾に苦しみ、百司の奏事を后に決させることが多く、常に意にかなったため国政に参与するようになった。后は寵と政を専らにし、しばしば上書して天下の利害を論じ人心を収めた。高宗の病が篤くなるにつれ后の専権はいよいよ制御できなくなり、高宗は密かに廃后を図ったが漏れて果たせなかった。上元元年、高宗は「天皇」、皇后も「天后」と号し、天下は二人を「二聖」と呼んだ。

則天皇后――弘道元年(683年)

  • 十二月、高宗が崩御し、遺詔により皇太子(中宗)が即位、決しがたい軍国の大務は天后の裁断を仰ぐこととされた。皇太子が即位し、天后を皇太后として臨朝称制させた。大赦。韓王元嘉を太尉、霍王元軌を司徒、舒王元名を司空とし、劉仁軌・裴炎・劉斉賢らを宰相級に任じた。

則天皇后――光宅元年(684年)

  • 二月、皇帝(中宗)を廃して廬陵王とし幽閉、豫王旦を皇帝(睿宗)に立てた。大赦し文明と改元、皇太后はなお臨朝称制した。廬陵王は房州・均州へ遷された。九月、大赦・改元、旗幟を白に改め東都を神都と改称、大いに官名を改めた。武氏の祖先を追尊した。柳州司馬李敬業が揚州で挙兵し乱を討つと称した(実質反乱)。十月、梁郡公孝逸を揚州道行軍大総管として敬業に対抗させ、裴炎を殺した。十一月、李敬業の乱は鎮圧された。

則天皇后――垂拱年間(685~688年)

  • 垂拱元年、大赦改元。突厥が辺境を侵し、淳于処平が忻州で敗れるなど苦戦した。垂拱二年、新豊県に山が出現し慶山と改称、赦・給復を行った。垂拱三年、皇帝子の隆基(後の玄宗)を楚王、隆範を衛王、隆業を趙王に封じた。京師で地震があり広州に金が降ったという。交趾で李嗣仙が安南都護を殺し反乱、桂州司馬曹玄静がこれを破った。垂拱四年、増七廟を行い、明堂を作った。「宝図」「天授聖図」を得たとして改元、嵩山を神岳と改めた。博州刺史琅邪郡王沖、越王貞が相次いで討亂を掲げ挙兵したが、いずれも鎮圧され誅殺された。韓王元嘉・魯王霊夔ら唐の宗室が多数粛清され「虺氏」と改姓させられた。

則天皇后――永昌元年(689年)

  • 大赦改元、賜酺七日。唐宗室・大臣の粛清が続き、汝南郡王瑋、鄱陽郡公諲、天官侍郎鄧玄挺、魏玄同、劉易従、黒歯常之ら多数が誅殺された。韋待価が吐蕃に寅識迦河で敗績した。

則天皇后――天授年間(690~691年)

  • 天授元年、周・漢の後裔を二王後とし、唐宗室の属籍を除いた。九月、国号を周と改め、大赦改元、賜酺七日。「聖神皇帝」の尊号を加え、皇帝(睿宗)を皇嗣に降し武氏を賜姓、武氏七廟を神都に立てた。周文王を始祖文皇帝と追尊するなど武氏の祖先を大々的に皇帝として追封した。粛清はなお続き、多くの宗室・大臣が殺された。天授二年、社稷を改置し旗幟を赤とした。岑長倩・欧陽通・格輔元・楽思晦らが殺された。

則天皇后――長寿年間(692~693年)

  • 長寿元年、改元。長寿二年、王孝傑が吐蕃を破り安西四鎮を克復した。金輪聖神皇帝の号を加えた。

則天皇后――延載元年(694年)以降

  • 延載元年、突厥默啜が霊州を侵したが李多祚がこれを破った。王孝傑が吐蕃を冷泉で破った。越古金輪聖神皇帝の号を加えた。天冊万歳元年、証聖と改元、薛懐義が誅殺された。万歳通天元年、神岳(嵩山)に封じ、万歳登封と改元、更に万歳登封宮を通天宮と改称した。王孝傑・婁師徳が吐蕃に素羅汗山で敗績した。契丹の首領李尽忠・孫万栄が営州を陥し都督趙文翽を殺す反乱を起こした。

則天皇后――神功元年(697年)

  • 綦連耀事件により多くの官人が連座して殺された。王孝傑が契丹の孫万斬と東硤石谷で戦い戦死した。九鼎を通天宮に置いた。武懿宗らが契丹討伐に向かった。改元。

則天皇后――聖暦年間(698~700年)

  • 聖暦元年、大赦改元。廬陵王(前の中宗)を房州から召還し、聖暦二年、正式に皇太子として立て、賜姓武氏、大赦した。突厥がしばしば辺境を侵し、狄仁傑・魏元忠らがこれに対処した。

則天皇后――久視元年(700年)

  • 大赦改元。「天冊金輪大聖」の号を罷めた。狄仁傑が薨じた。唐の正月を復した。

則天皇后――長安年間(701~704年)

  • 大足と改元後さらに長安と改元。突厥・吐蕃との攻防が続いた。神都と京師の往還を繰り返した。

則天皇后――神龍元年(705年)

  • 正月、張柬之・崔玄暐・敬暉・桓彦範・袁恕己・李多祚らが羽林兵を率いて張易之・張昌宗兄弟らを誅殺する政変(神龍革命)を起こした。皇帝(中宗)が復位し、后を上陽宮に遷して「則天大聖皇帝」の号を上らせた。十一月、崩御。諡は大聖則天皇后。後に唐隆元年に天后、景雲元年に大聖天后、延和元年に天后聖帝、開元四年に則天皇后、天宝八載に則天順聖皇后と、たびたび諡号が改められた。

中宗――出自と生い立ち

  • 中宗李顕、高宗の第七子。母は則天順聖皇后武氏。高宗の崩御後、皇太子として即位したが皇太后(武氏)が臨朝称制した。嗣聖元年正月、廃されて均州、さらに房州に遷された。聖暦二年、再び皇太子に立てられた。太后が老病となった。

中宗――神龍元年(705年)

  • 正月、張柬之らの政変により皇太子が監国、大赦改元の後復位。国号を唐に復し、韋后が皇后に復位した。魏元忠・崔玄暐・韋安石・唐休璟ら重臣が要職に就いた。九月、明堂で天地を祀り大赦。十一月、応天皇帝・順天皇后の尊号を上らせた。皇太后(則天)が崩御した。

中宗――神龍二年(706年)

  • 十道巡察使を派遣した。王同皎が誅殺された。則天大聖皇后を葬った。敬暉・桓彦範・袁恕己・崔玄暐・張柬之ら政変の功臣が次々と左遷・流罪となった(武三思の讒言による)。衛王重俊を皇太子に立てた。

中宗――景龍年間(707~710年)

  • 景龍元年、皇太子重俊が羽林千騎の兵で武三思を誅そうとしたが果たせず戦死した(重俊の変)。「応天神龍皇帝」の号を上らせた。景龍二年、皇后・妃・公主らが官を売り「墨勅斜封」の弊が横行した。景龍三年、韋后・宗楚客ら韋氏一族の専権が進んだ。景龍四年、皇后・安楽公主らが謀反を企て、六月壬午、皇帝が崩御、享年五十五。諡は孝和皇帝。天宝十三載に大和大聖大昭孝皇帝と重ねて諡された。

史論

  • 賛にいう。かつて孔子は春秋を作り、乱臣賊子を懼れさせた。弑君篡国の主についても事実を隠さず記したのは、その大悪を著すためである。司馬遷・班固もみな高后紀を立て、呂氏が漢を簒奪した者ではないにせよ国政を盗み執ったことを隠さず記した。これは春秋の法にかなうものであろう。唐の旧史が武后を本紀に列したのも、この由来による。
  • 吉凶は人に影と響きのようにつきまとうもので、善を為して吉を得る者は多いが、不幸にして凶に遭う者もある。悪を為して凶に至らぬ者も稀にある。武后の悪は大戮に及ばなかった、いわば幸いにして免れた者である。しかし中宗・韋氏に至っては禍は踵を返す間もなく訪れた。中宗は母后の難を身をもって経験しながら自らこれを繰り返した、いわば下愚の移らざる者というべきであろう。