新唐書卷三 本紀第三 高宗
唐の第三代皇帝、高宗李治(字は為善、太宗の第九子、?–683年)。母は文徳皇后長孫氏。貞観十七年、皇太子承乾の廃立と魏王泰の失脚を受けて皇太子に立てられ、太宗崩御後に即位した。治世中に百済・高麗を滅ぼし唐の版図を最大に広げたが、晩年は皇后武氏(後の則天武后)の台頭を許し、皇太子の廃立も彼女の意向に左右された。
出自と生い立ち
- 高宗李治、字は為善、太宗の第九子。母は文徳皇后長孫氏。初め晋王に封じられ、貞観七年に幷州都督を遙領した。貞観十七年、皇太子承乾が廃され、次に立つべき魏王泰も罪により黜けられたため、治が皇太子に立てられた。太宗が皇太子に遊観・習射を勧めた際、太子は「至尊に侍り膝下に居ることを願う」と辞した。太宗は喜び、寝殿の側に別院を営んで太子を住まわせ、視朝の際は常に太子を侍らせ庶政の裁決を観察させた。
貞観二十三年(649年)
- 太宗が病篤くなり、皇太子に金液門で聴政させた。四月、翠微宮に従幸。太宗崩御後、六府の甲士四千で皇太子を京師へ護衛させた。六月甲戌、柩前で即位。大赦し文武官に勲一転を賜い、雍州および比歳供軍所の租を一年免じた。長孫无忌が太尉となった。
永徽元年(650年)
- 改元。王氏を皇后に立てた。子の孝を許王、上金を杞王、素節を雍王に封じた。高偘が突厥を金山で破った。
永徽二年(651年)以降
- 瑤池都督阿史那賀魯が反乱し、梁建方・契苾何力らがこれを討った。白水蛮が辺境を侵し趙孝祖らが対処した。
永徽三年(652年)
- 梁建方が処月を牢山で破った。褚遂良が吏部尚書・同中書門下三品となった。陳王忠を皇太子に立てた。
永徽四年(653年)
- 房遺愛・薛万徹・柴令武、高陽・巴陵両公主らの謀反が誅され、荊王元景・呉王恪も殺された。睦州の女子陳碩真が反乱を起こしたが討平された。
永徽五年(654年)以降
- 京師羅郭の築造が進められた。
永徽六年(655年)
- 皇太子(弘)が元服。程名振・蘇定方が高麗と貴端水で戦い破った。十月、皇后王氏が廃されて庶人となり、宸妃武氏が皇后に立てられた。
顕慶元年(656年)
- 皇太子忠が廃され梁王となり、代王弘が皇太子に立てられた。
顕慶二年(657年)
- 蘇定方が伊麗道行軍総管として賀魯討伐に向かった。程知節が賀魯部の歌邏禄・処月を榆慕谷で破った。洛陽宮を東都とした。
顕慶三年(658年)以降
- 蘇定方が賀魯を金牙山で破りこれを捕らえた。程名振が高麗を赤烽鎮で破った。
顕慶四年(659年)
- 長孫无忌が黔州に流された。
顕慶五年(660年)
- 蘇定方が新羅王金春秋と共に百済を討ち、これを破り百済王を捕らえて献上した。契苾何力・蘇定方・劉伯英を高麗討伐に派遣した。
龍朔元年(661年)
- 高麗遠征軍として任雅相・契苾何力・蘇定方・蕭嗣業・程名振・龐孝泰らが三十五軍を率いた。
龍朔二年(662年)
- 官名を大きく改めた。龐孝泰が高麗と蛇水で戦い戦死した。鄭仁泰が鉄勒を天山で破った。
龍朔三年(663年)
- 孫仁師が百済を白江で破った。上官儀が突厥を仙㟧道で討つ準備が進んだ。
麟徳元年(664年)
- 上官儀・庶人忠(李忠)が殺された。
麟徳二年(665年)
- 東都巡幸中、劉祥道・竇徳玄らが政務を担った。
乾封元年(666年)
- 泰山で封禅し、社首で禅を行い、皇后が亜献を務めた。大赦し改元。曲阜で孔子を祀り太師を追贈、亳州で老子を祀り太上玄元皇帝の号を追贈した。李世勣が遼東道行台大総管として高麗討伐を発した。
乾封二年(667年)
- 李世勣が高麗を新城で破った。
総章元年(668年)
- 李世勣が高麗を破り扶余・南蘇・木底・蒼巌城を克服、九月に高麗王高蔵を捕らえた。高麗が平定された。
総章二年(669年)
- 李世勣が薨じた。
咸亨元年(670年)
- 吐蕃が亀茲の撥換城を陥し、安西四鎮が廃止された。薛仁貴が邏娑道行軍大総管として吐蕃を討ったが、大非川で敗績した。
咸亨二年~四年(671~673年)
- 吐蕃・突厥との攻防が続いた。姚州蛮の反乱に対し梁積壽が討伐に向かった。
上元元年(674年)
- 皇帝は「天皇」、皇后は「天后」と称するようになった。歴代祖先の諡を追贈・加増した。
上元二年(675年)
- 天后が皇太子(弘)を殺し、雍王賢が皇太子に立てられた。
儀鳳元年(676年)以降
- 吐蕃が辺境を侵し、周王顕(後の中宗)・相王輪(後の睿宗)を行軍元帥として討伐に向かわせた。
儀鳳三年(678年)
- 李敬玄・劉審礼が吐蕃と青海で戦い敗績、審礼は戦死した。
調露元年(679年)
- 裴行倹が西突厥を討ちその可汗都支を捕らえた。突厥の温傅・奉職部が反乱した。
永隆元年(680年)
- 裴行倹が突厥を黒山で破った。皇太子賢が廃されて庶人となり、英王哲(後の中宗)が皇太子に立てられた。
開耀元年(681年)
- 裴行倹が突厥を討ち、温傅可汗・阿史那伏念を捕らえて献上した。
永淳元年(682年)
- 孫の重照が皇太孫に立てられた。突厥骨咄禄が辺境を侵し、大蝗により人が相食むほどの飢饉となった。
弘道元年(683年)
- 突厥がたびたび辺境を侵した。十二月丁巳、改元の夜、貞観殿で崩御、享年五十六。諡は天皇大帝。天宝八載に天皇大聖皇帝、十三載に天皇大聖大弘孝皇帝と重ねて諡された。
史論
- 賛にいう。詩経小雅に「赫赫たる宗周、褒姒これを滅ぼす」とある。これは周幽王の詩であるが、幽王が亡んだ後も太子宜臼が立ち平王となったにもかかわらず、詩人が「滅ぼす」と言ったのは、文王・武王の功業がここに尽き果てたことを甚だしく憎んだためである。武氏の乱により唐の宗室はほとんど戕殺され、賢士大夫も十のうち八、九が難を免れなかった。太宗の治世の遺徳がまだ遠くないうちに、王朝が絶えかけるほどの害をなしたのは、褒姒の比ではない。太宗の明察をもってしても子を知ることに暗く、廃立の際に自ら決することができず、結局昏愚な子(高宗)を用いた。高宗は情に溺れ危機の兆しを戒めず、その毒は天下に流れ、禍を国家にもたらした。ああ、父子夫婦の間とは何と難しいものか。慎まねばならない。