清史紀事本末鉄道国有化政策(鐵路國有政策)

宣統3年(1911)、新内閣最初の政策として幹線鉄道の国有化が宣示され、外国借款を背景に商弁鉄道利権を接収したことから、四川・湖南・湖北・広東の民衆が保路運動を展開する。四川での成都血案を機に武昌蜂起(辛亥革命)へと発展し、盛宣懐が革職に追い込まれるまでの経緯を描く。

年表(6件)

末帝宣統三年(1911年)夏四月

  • 幹線鉄道の国有化を宣示した(枝線は商民に許可)。従来の商弁許可はすべて取り消し、抵抗すれば違制として処罰するとした。発案者は御史石長信、実行者は郵伝大臣盛宣懐で、新内閣最初の政策であった。背景には英米独仏4カ国からの1000万ポンド借款があり(載沢は躊躇したが盛宣懐が押し切った)、日本も債権参加を求めた。
  • 侍郎銜端方を粤漢・川漢鉄道督弁大臣、鄭孝胥を湖南布政使に任命した。湘・粤・川・鄂の民衆は、かつて自ら出資して回収した鉄道利権(粤漢鉄道は光緒28年に米国合興公司から回収)を国に奪われることに猛反発し抗議運動を起こした。政府は端方を用いて湖南・湖北の民心懐柔を図る一方、国有化推進論者の鄭孝胥を布政使に据えた。
  • 四川・湖南の鉄道租股(強制出資金)徴収を停止し、湖南では路捐に伴う米塩税・房税も停止した。

宣統三年(1911年)夏五月

  • 湖南巡撫楊文鼎は諮議局の「湘路は自弁可能で借款不要」との上奏を代奏したが却下・戒告を受けた。楊文鼎は表向き懐柔しつつ内実は政府に強硬な鎮圧を進言していた。
  • 署四川総督王人文も諮議局の反対上奏を代奏したが却下・戒告を受けた。四川では日本留学生らの唱える「路存与存、路亡与亡」の主張のもと不納税運動も広がった。盛宣懐は載沢を通じ摂政王を動かし国有化を押し通した。
  • 川粤漢鉄道回収の詳細な方法が布告された。
  • 御史趙熙・欧家廉が盛宣懐の借款・売路など20余の罪状を弾劾したが黙殺された。湖北の京官・諮議局も抗議した。
  • 英米仏独4カ国借款契約に盛宣懐が調印した。京漢-粤漢を南幹線、京張-恰克図を北幹線、京漢東-琿春を東幹線、正太-伊犁を西幹線とする4大幹線構想も密議された。各省に開会を禁じる通達が発出された。
  • 広東の鉄道会社株主が国有化撤回を求め決議した(対抗策5項目)。在米華僑も抗議集会を開いた。
  • 四川・湖北・湖南の議員(蕭湘・李文熙、湯化龍・張国鎔、譚延闓・黎尚雯・羅傑ら)が連合して抗争し、盛宣懐を弾劾した。両広総督張鳴岐は広東の株主会を強制解散させた。盛宣懐・端方の間で権限分担が密約された。湖南教育会長黄忠浩は諮議局に盛宣懐の罪状審議を求める長文の建白を提出した(諮議局の議決権に基づき鉄道国有政策の違法性を訴えたもの)。宜昌では川漢鉄道工事中止に反発した労働者の暴動を軍が鎮圧し、死者多数を出した。

宣統三年(1911年)六月・閏六月

  • 王人文が盛宣懐の借款契約の失敗を弾劾したが黙殺された。四川で保路同志会が結成され、王人文も同調した。
  • 瑞澂が路線確定を上奏した(端方と瑞澂の確執が絡む路線変更問題であった)。王人文は全国的な保路騒動の実情を上奏したが戒告を受けた。瑞澂・張鳴岐・趙爾豐・余誠格に鉄道事務の会弁が命じられた。

宣統三年(1911年)秋七月

  • 四川保路同志会は光緒帝の位牌を掲げ罷市・罷課の抗議運動を展開し、各国領事も自国民保護を要求した。保路会代表劉声元は盛宣懐弾劾を訴えて拘束されたが釈放された。端方は趙爾豐の無能を弾劾し自らの入蜀を命じられたが躊躇した。広東でも保路会が結成され代表が送別された。劉声元は再度奕劻に直訴したが四川へ強制送還された。趙爾豐は保路会幹部(鄧孝可・顔楷・張瀾・蒲殿俊・羅綸ら)を逮捕し、釈放を求める民衆に発砲して多数の死傷者を出した(成都血案)。岑春煊が四川へ派遣されたが武昌総督との対立で中止された。瑞澂は漢口で川人蕭湘を拘束した。

宣統三年(1911年)八月

  • 湖北での鉄道接収を評価され瑞澂らが褒賞された。武昌で民軍が蜂起し(辛亥革命勃発)、瑞澂は逃亡、武漢三鎮が民軍の手に落ち重慶も危機に陥った。袁世凱を湖広総督、岑春煊を四川総督に任命した。王人文を更迭し趙爾豐が川滇辺務大臣を兼任、端方が四川総督代理となった。広東提督李凖による盛宣懐弾劾、端方による王人文弾劾はいずれも黙殺された。岑春煊は四川問題について、国有化の趣旨徹底と株の返還を柱とする本策、李穆勲の更迭を柱とする標策を上奏した。

宣統三年(1911年)九月

  • 盛宣懐が違法な権限濫用の責任を問われ革職となった(資政院の弾劾による)。内閣総理大臣奕劻・協理大臣那桐・徐世昌も処分対象とされた。趙爾豐には逮捕者の釈放が命じられ、王人文・趙爾豐は内閣で議処、道員田徴葵らは革職・遣戍とされた。